平成28年4月19日(火)~平成28年6月12日(日)
黒田一貫像
福岡市博物館で収蔵している福岡藩の筆頭(ひっとう)家老(かろう)・三奈木(みなき)黒田(くろだ)氏の資料には、歴代当主(とうしゅ)の肖像画をはじめとして、絵画や書跡(しょせき)など、同家の歴史と文化を物語る資料が多く含まれます。この展示では、そのなかから、当時の藩内での高い地位と武家の文化を物語る名品や、同氏の福岡藩での歴史を物語る貴重な資料を紹介します。
(一)三奈木黒田氏の当主(とうしゅ)たち
三奈木黒田氏の当主像は、文化(ぶんか)2年(1805)以降、天保(てんぽう)4年(1833)にかけて第九代清定(きよさだ)によって写しなどとして整えられたものです。一番古いものは三代当主の黒田一貫(かずつら)像です。一貫は十八世紀・元禄(げんろく)時代前後の福岡藩の文治(ぶんち)政治を支えた家老で、貝原(かいばら)益軒(えきけん)などを重んじたことで有名です。また四代一春(かずはる)、七代一興(かずおき)は若くして亡くなった当主たちですが、当時の若い高級武家の武士の裃(かみしも)姿をよく示しています。
三奈木黒田氏の当主の名前に共通する「一」の字は通字(つうじ)と言い、武士の家で代々受け継ぐ字で、三奈木黒田氏では、初代一成以来のものです。八代隆庸(たかつね)も始め一庸といい、彼の「隆」は当時の九代藩主黒田斉(なり)隆(たか)の名前の一字を与えられたものです。九代清定も、始め一定(かずさだ)でしたが、十代藩主黒田斉清(きよ)の一字を与えられました。
一八世紀後半の福岡藩政は、九代藩主を徳川将軍の親類の一橋(ひとつばし)家から迎え、しかも若くして死去したため、残された幼君がその座に就き、家老の合議(ごうぎ)による政治が続いたとされます。藩主たちは筆頭家老三奈木黒田氏へ、自分の名前の一字を与えることで信頼を深めようとしたのでしょうか。
(二)近世初期武家の禅(ぜん)と数寄(すき)文化
三奈木黒田氏に残された書跡(しょせき)作品のうち、一番に挙げられるのが、博多(はかた)妙楽(みょうらく)寺に伝わった、南宋(なんそう)の禅僧の漢詩(かんし)「虎丘十詠(くきゅうじゅうえい)」のために明代の禅僧(ぜんそう)雪谷宗(せっこくそう)戒(かい)が残した跋文(ばつぶん)です。黒田長政(ながまさ)が初代藩主として筑前(ちくぜん)に入国した際に、「虎丘十詠」は黒田家に召し上げられましたが、その跋文の一つが、三奈木黒田氏に伝来したものです。この作品はむしろ美術的嗜好(しこう)のものですが、初代一成(かずなり)が慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原(せきがはら)合戦前に参禅(さんぜん)し「休江(きゅうこう)」と言う法号(ほうごう)を得たことが記された書もあり、一成の精神の深い一面を窺わせます。
このほか二代藩主忠之(ただゆき)の残した黒田家ゆかりの茶器(ちゃき)の名品の覚書は、この時代の大名の茶道文化を窺わせます。ただ三奈木黒田氏の当主にとっては、この覚書は忠之という二代目の藩主の遺品として彼の肖像画とともに、主従の深いつながりを示すものと言えます。
(三)近世狩野派(かのうは)と御用絵師(ごようえし)の作品
江戸時代前期には幕府の御用絵師として力を持った狩野派の絵師、とくに、狩野派の初代探幽(たんゆう)などの名品は、武家の高級な文化を示す品として、幕府や大名の間で重宝され贈答(ぞうとう)、儀式(ぎしき)などで使用されます。また福岡藩四代藩主黒田綱政(つなまさ)は自ら絵画を狩野派の絵師・狩野昌運(しょううん)にまなびました。三奈木黒田氏に存在していた狩野派などの絵画は、記録によると、特に江戸時代中後期には、筆頭家老として、儀式や職務が一段落した際に、藩主から与えられたものも多かったと言われています。藩主はしばしば三奈木黒田氏の屋敷を訪れ、その際の記念の下賜品(かしひん)にも使われました。このように名画も、筆頭家老という三奈木黒田氏の高い地位と結びついています。
本展の展示作品はその伝来はわかりませんが、狩野永真(えいしん)の作として伝来した鷹(たか)の三幅対(さんぷくつい)、また同探幽(たんゆう)の山水(さんすい)画、初期の御用絵師尾形(おがた)氏の描いた中国・三国時代の武将関羽(かんう)など、武家の力強さを感じさせる作品が残されています。