平成28年6月7日(火)~平成28年8月7日(日)
図1 羽柴秀吉書状(史料3、部分)
身分の高い人が出す手紙は、自ら書かずに、側近くに仕えた家来による代筆(右筆書(ゆうひつが)き)でしたが、まれに私的な文書のなかで、ごく身近な人に対する手紙や、神仏への願文等の場合において直筆(じきひつ)でしたためられることがありました。直筆の手紙には、右筆書きにはない本人の心情や本音が吐露され、書き手の肉声が伝わってくるかのような迫力や切実さが文面に表れています。
羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉(ひでよし)が黒田(くろだ)孝高(よしたか)に宛てた手紙(図1)は、秀吉の初期の自筆書状としてつとに知られたものです。秀吉は織田(おだ)信長(のぶなが)の命を受けて中国攻めを開始するに当たり、孝高の協力を期待して仮名書きを多用した文面で「其方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候」と語りかけています。人の心をつかむのに長けた秀吉らしい文章です。
博多(はかた)の豪商・嶋井(しまい)宗室(そうしつ)は、茶の湯を介し、千利休や秀吉と親しく交わりました。利休が宗室に宛てた手紙(図2)では、上方を離れた宗室に、秀吉ともども再会を朝夕念じていることや、天下の三名物の一つに挙げられる初花(はつはな)の茶入れが徳川家康(とくがわいえやす)から秀吉に贈られたことを知らせています。「珍しき唐物(からもの)到来に候」と一応は誉めつつも、「我等かたへは珍しからず候」と、名物茶器を数多く所持した二人ならではの本音が語られています。
親密さと反対に怒りをあらわにすることもありました。加藤(かとう)清正(きよまさ)は、わざわざ自ら筆を執り家臣を叱責しました(図4)。関ヶ原(せきがはら)合戦(かっせん)で西軍の挙兵直後、大坂にいた清正の奥方は家臣の手引きで脱出し、黒田氏の居城中津(なかつ)(大分県中津市)を経て、無事に熊本(くまもと)まで救出されました。ところが、清正は、如水の協力まで得て公然と帰国していることを知ると憤激したのです。親にも隠し、何時下ったか分からないようにしなければならなかった、と責めたてています。
苦し紛れの言い訳にも直筆の手紙が用いられました。真田(さなだ)攻めに手間取って関ヶ原合戦に間に合わなかった徳川秀忠(ひでただ)は、黒田長政に「路次中(ろじちゅう)、日夜(ひるよる)相急ぎ申し候えども、節所(せっしょ)(通過困難な道)ゆえ、遅々迷惑推量なさるべく候」と、遅刻の苦しい弁解を行いました(図5)。半月前に真田攻めに出陣すると伝えた手紙では右筆書きでしたが、わざわざ直筆でしたためており、秀忠の焦りを感じさせます。同じく関ヶ原合戦で西軍に味方した島津(しまづ)義弘(よしひろ)は、敵対の言い訳を長々と綴っています。
子孫の将来を案じて書き遺された遺言(ゆいごん)も直筆で書かれました。嶋井宗室は養嗣子とした外孫の信吉(のぶよし)に対し聖徳太子(しょうとくたいし)の十七条の憲法になぞらえて十七ヶ条からなる長文の遺言状(図6)を授けました。華美を戒め、弓矢取りの名人や吉田(よしだ)兼好(けんこう)『徒然草(つれづれぐさ)』の「双六(すごろく)の上手(じょうず)の手立て」を引き合いに処世術を示しています。
本展覧会では、本館が所蔵する古文書群から、戦国時代~桃山時代に活躍した武将・茶人が直筆でしたためた手紙を紹介します。個性あふれる豊かな内容と筆跡をご鑑賞下さい。
(堀本一繁)
図2 千利休書状(史料4)
図3 松井友閑書状(史料2)
図4 加藤清正書状(史料8)
図5 徳川秀忠自筆書状(史料9)
図6 嶋井宗室遺訓(史料13、部分)