平成28年6月14日(火)~平成28年8月21日(日)
慰問箱(側面)
慰問文と慰問品
軍事郵便として戦地に送ることができたのは、手紙と新聞・雑誌、小包でした。銃後のひとびとには、出征した親族やご近所といった特定個人だけでなく、不特定の前線兵士に慰問文、慰問品を送ることが求められました。
慰問文は、故郷の風景や、戦地を支える銃後の姿を描いた絵葉書などが用いられました。
慰問品は、手拭(てぬぐ)い・カミソリ・歯磨きなどの日用品や、缶詰などの腐敗しにくい食料品、菓子・煙草といった嗜好品(しこうひん)でした。これらの慰問品は袋や箱に入れて戦地に送られました。種々の物品をセットにした慰問袋や慰問箱は、戦争の長期化により物資不足が深刻化するまでは、デパートなどで買い求めることができました。福岡市内でも玉屋、松屋などが慰問箱を取り扱いました。
慰問品の中で特に重視されたのは、心のこもった贈り物でした。前線の兵士を喜ばせるとして、手書きの慰問文や手作りの人形をそえることがすすめられました。
伊藤半次の絵手紙
戦地からの手紙―伊藤半次の絵手紙
戦地から銃後へ送られた軍事郵便には、戦地での兵士の日常や銃後の家族への思いが綴(つづ)られます。
伊藤半次(はんじ)は1913(大正2)年に福岡市馬出に生まれました。婿養子(むこようし)として福岡市中島町(現 福岡市博多区)の提灯店(ちょうちんてん)を継いだ提灯職人でした。1940(昭和15)年に召集され、翌年に満洲に出征します。1944(昭和19)年に沖縄に転戦し、翌年同地で戦死しました。伊藤は軍隊に入隊してから戦死するまでの5年間で、家族宛てに約400通の手紙を送りました。日本画を学んだ伊藤は、葉書にユーモラスなイラストを描いています。
伊藤の絵手紙の主な内容は、家族の安否確認と近況報告です。故郷福岡を懐かしむ記述や、同郷の兵士と意気投合する記述からは、家族や故郷が兵士の心の支えであったことがうかがえます。
伊藤の絵手紙には、慰問袋を部隊内で分配したこと、慰問用の雑誌を兵士が廻し読みしていたことなど、銃後からの慰問品に関する記述があります。また、兵士にとって妻からの手紙が1番嬉しいこと、近所の子どもたちからの慰問文を大切に保管していることを家族へ書き送っています。前線の兵士にとって、銃後からの軍事郵便は、戦地と銃後が距離を隔てていても「つながっている」ことを担保する存在だったのです。
(野島義敬)