平成28年10月12日(水)~平成28年12月27日(火)
草木図
(チューリップ、展示資料20)
四、黒田斉清の時代
10代藩主斉清(なりきよ)は、9代斉隆の遺児として、わずか1歳で藩主となりました。そのため、藩政は家老の合議(ごうぎ)制と、支藩秋月(あきづき)藩主の後見で行われ、斉清は文学者、芸術家としてよりも西洋の知識を持った植物学や鳥類の学者として名を留め、学術的な著作も多く、長崎警備の合間にシーボルトと交流したことは有名です。
五、幕末の黒田長溥・長知と絵画・文芸
そして迎えた幕末、「蘭辟大名(らんへきだいみょう)」といわれた11代藩主・黒田長溥(ながひろ)は、薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)の子供で、斉清の養子となり、その娘を妻に迎え、藩主となりました。そして西洋風の軍事学、医学などを家臣に学ばせ、富国強兵的な藩政を目指しました。自分もチューリップ、ヒヤシンス、トマトなど、当時珍しい西洋植物スケッチ画を描いており、その知識は並大抵のものではなかったといわれます。ただ藩主の西洋学問好きは、実際の藩政で、開国か攘夷(じょうい)か、といった家臣のなかでの路線の違いや、藩財政、軍事改革などに影響を与えました。一方で長溥は漢詩、水墨画、和歌にも精通し、雄藩(ゆうはん)佐賀藩主鍋島直正(なべしまなおまさ)とも、長崎警備と縁から交流を続けています。最後の藩主・12代黒田長知(ながとも)は、伊勢(いせ)の藤堂家(とうどうけ)から迎えられ、彼は妻の豊子(とよこ)とともに和歌を嗜んでいます。
さて福岡藩は長溥が朝廷、幕府、雄藩の公武合体(こうぶがったい)路線を望み、長知も藩主代理として活躍します。しかし藩内は幕末最後に佐幕(さばく)派が主導権をとり、攘夷派を弾圧したため、藩として維新政府に加わることはできませんでした。長溥や長知は後年、国を思う赤心は変わらなかったと、絵画と和歌に託して表明しています。
(又野 誠)