平成29年1月17日(火)~平成29年4月2日(日)
はじめに
多紐細文鏡
(吉武高木遺跡出土)
今年度は、2回にわけて銅鏡の展示を行います。前回の展示「時代を映す銅鏡」では、飛鳥・奈良~江戸時代の銅鏡を取り扱いましたが、そこには権威の象徴から日用品へと変容していく様子が見られました。今回の展示は、弥生時代と古墳時代の銅鏡を展示します。
古来より「鏡」には、特別な力が宿るものと考えられてきました。大陸より銅鏡が日本列島に初めてもたらされた弥生時代、その当初から銅鏡は特別な力が宿る権威のシンボルとして珍重(ちんちょう)されていたようです。銅鏡はやがて、国内でも生産されるようになり、その出土数も増加していきます。福岡市内で発掘された銅鏡から、当時の人々が銅鏡とどのように関わっていたか、その様子を紹介します。
銅鏡との出会い
内行花文鏡
(宝満尾遺跡出土)
鋳型
(井尻B遺跡出土)
弥生時代になると、人々の階層の差が大きくなり、その差は、お墓の規模や副葬品にも反映されます。副葬品は壺や石剣、石鏃(せきぞく)から始まり、やがて弥生時代中期(紀元前3~1世紀)ごろになると、大陸からもたらされた青銅器(せいどうき)などへ変わっていきます。銅鏡もそのうちのひとつです。
西区にある吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡から見つかった多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)(写真1)は、日本にはじめて伝えられた形の鏡です。鏡の背面にはつまみが2つ付いており、これに紐をかけ、首からさげていたと考えられています。鏡の面は凹面で、ものが逆さまに映るため、何かを映し出す用途として使われたのではないかと考えられています。現在では錆(さ)びてしまっていますが、つくられた当初は黄金色に輝いていました。自然とともに生きていた人々は、光を反射して太陽のように輝く銅鏡に畏敬の念を抱いたのかもしれません。また、このお墓からは銅剣(どうけん)・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)も見つかっており、周辺のほかのお墓よりも身分の高い人が埋葬されたと推測できます。当時、周辺を治めていた有力者のお墓なのでしょう。
多鈕細文鏡をはじめとして、日本列島には内行花文鏡(ないこうかもんきょう)(写真2)や方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)など、さまざまな種類の鏡がもたらされました。弥生時代中期から後期にかけては、特に北部九州に多くの鏡が流入したことが、発掘調査からわかっています。これらの鏡は、青銅器や玉類などの様々な品々とともに主にお墓に副葬されました。鏡が副葬されているかどうか、何枚の鏡が副葬されてるのか、他にどのような品と一緒に副葬されているのかなどによって、埋葬された人の階層の差を推測することができます。また、完全な形の鏡ではなく、1枚の鏡を割った鏡の破片(破鏡(はきょう))が見つかることもあります。完全な形の鏡が不足していたため、権威の象徴として鏡を分割して分け与えたという説などがあります。それだけ鏡は威信材として重要視されていたのでしょう。