平成29年2月21日(火)~4月23日(日)
12 「旧稀集」より「中島橋枡形之景」
福岡と博多の境目に架かる橋
「西中島橋(にしなかしまばし)」は福岡市中央区天神と博多区中洲中島町の境界に架かる大きな橋です。現在、この場所は昭和通りの愛称で親しまれる道幅50メートルの市道が通り、市内でも最も交通量が多い場所の1つとなっています。今回の展示では、福岡と博多の境目に位置する西中島橋とその界隈という狭い範囲の歴史について見ていき、この地域が持つ特性を探ってみたいと思います。
江戸時代の西中島橋界隈
西中島橋が架けられたのは17世紀初めです。福岡藩初代藩主黒田長政(くろだながまさ)が旧来からある博多の西側に福岡城を築城する際に、城下と博多を結ぶため、那珂(なか)川河口の砂州に町(中島町)を作り、東西に橋を架けたことに始まります。特に西中島橋は約70メートルもの長さがあり(東中島橋は約45メートル)、その姿は多くの絵画作品や写真に残されています。伝承では、この橋は福岡市東区を流れる多々良(たたら)川河口に架かっていたものを移設したと言われています(「石城志」)。
江戸時代には、この橋を挟んで東が博多、西が福岡というように、行政的に区別され、福岡側には高さ10メートルの石垣が築かれ、2つの町を隔てていました。さらに西中島橋を渡った福岡側には敵の侵入を妨げるための枡形(ますがた)の門が置かれましたが、これはこの場所が城下の防衛上重要な場所であったことを物語っています。江戸時代初めの絵図を見ると枡形門の上には2階建ての櫓(やぐら)があり、周囲ににらみを利かせていました。
東西中島橋に挟まれた中島町の産神(うぶがみ)は福岡の水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)、流(ながれ)は博多の魚町流(うおのまちながれ)に属し、家数は18世紀で63軒、幕末で89軒ありました。町の北側には藩の軍船を係留しておく舟入(ふないり)がありましたが、18世紀には砂の堆積などにより使いづらくなったため埋め立てられました。19世紀以降は、町の南北に広がる砂州で芝居や相撲の興行が行われるようになり、城下の人々が集まる娯楽の場にもなりました。また、幕末には西洋の文化に明るい11代藩主・黒田長溥(ながひろ)によって、中島町の南側の東中洲に、「精煉所(せいれんじょ)」という先進的な化学及び工業技術の実験を行う研究所のような施設が作られ、新たな産業の担い手となる人材の育成が試みられました。
なお、この時代の中島町からは「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」の作者として知られる奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)(1761~1828)や「旧稀集(きゅうきしゅう)」の作者・庄林半助(しょうばやしはんすけ)(生没年未詳)といった、商工業に携わる傍らで地誌・見聞集を編さんした人々が輩出されています。