平成29年6月27日(火)~8月27日(日)
殿様たちの博物学
江戸時代後期になると本草学は、さらに博物学的色彩を強めていき、加えて長崎を通してもたらされる西洋学問の影響を受けるようになります。研究に夢中になる藩主や旗本も現れ、彼らの中には日頃の成果を発表したり、情報交換をするために研究会を立ち上げた人もいました。
福岡藩10代藩主・黒田斉清は、研究に没頭した殿様の代表格と言って良い人物です。斉清は、幼少期から眼病を患っていましたが、植物や鳥類に関心を持ち、研究にいそしんだことが知られています。彼は著作である「本草啓蒙補遺(ほんぞうけいもうほい)」の中で「予四歳ノ時ヨリ鳥ヲ愛シ、十五歳ノ時ヨリ鷹ヲ以テ鳥ヲ捕ラシム、十七八歳ノ頃ヨリ隼ヲシテ鳥ヲ捕ラシムル」と、4歳の時から鳥類を愛し、鷹や隼を飼って生態を調べていたことを記しています。また、鵞鳥も長年飼育しており、その経験や知識をもとに「鵞経(がきょう)」(資料番号5)を著しています。
「本草啓蒙補遺」では、香木・喬木類など計162の品種の植物について、原生地や多生地、各地で異なる名称、変種の事例などを記しており、植物に関する研究水準の高さもうかがい知ることができます。
11代藩主・黒田長溥は幕末期に西洋医学や技術の導入に積極的だった殿様として知られています。長溥は鹿児島藩・島津家の出身で、実父は8代藩主・島津重豪(しげひで)でした。重豪も西洋学問に造詣が深い殿様として知られ、寛政(かんせい)5年(1793)から文化(ぶんか)元年(1804)にかけて『成形図説(せいけいずせつ)』(資料番号7)という本草書を編さんしました。『成形図説』は、植物の栽培方法や使用する道具などについて豊富な図を交えて紹介しており、実用的かつ資料的価値の高い書物です。
長溥は、西洋文化の窓口であった長崎港の警備を担う福岡藩の殿様という立場もあり、西洋文化に触れる機会も多く、かつ、実父・重豪と養父・斉清の影響もあり、学問に強い関心を寄せました。
殿様たちの写生図
14 本草図(チューリップ)
本草学や博物学の研究では、植物や動物などを詳細に描いた写生図や図譜が多く制作されました。
「本草正画譜(ほんぞうせいがふ)」(資料番号11)は、博多呉服町下(現福岡市博多区)の薬種商で本草学者であった内海蘭渓(うつみらんけい)がまとめた植物図譜。蘭渓が残した記録によると、文化8年5月と同10年10月の二度にわたって黒田斉清が借り出し、二度目の際には図譜に載せられた植物の名称の改定も指示していたことが分かります。この図譜は後に斉清が求めるところとなり、黒田家に伝来しました。
また、黒田資料には、斉清自身が筆を執って描いたと考えられる「鵞鳥図(がちょうず)」(資料番号12)が伝えられています。筆の運びや彩色は拙いながらも、ほぼ実物大と思われる鵞鳥が画面1杯に描かれており、眼病に負けず研究に情熱を傾ける斉清の姿が浮かんでくるようです。
一方、長溥も自ら植物を描いた「本草図」(資料番号14)を175枚も残しています。描かれているのは、幕末期から明治時代にかけて海外から日本に輸入されたチューリップやヒヤシンスなどで、品種名や渡来した時期が記されています。これら斉清と長溥本人や周辺で制作された図譜・写生図から、彼らの研究が分類や体系化を重視する博物学の側面を有していたことがうががい知れます。
(髙山英朗)
《参考文献》
『福岡県史』通史編福岡藩文化(上)(福岡県、1993年)、錦織亮介「福岡市美術館所蔵 鵞鳥図と福岡藩10代黒田斉清」(『福岡市美術館紀要』1号、2013年)など