平成29年12月12日(火)~平成30年4月1日(日)
新発見の漢鏡「長宜子孫」銘 内行花文鏡
(仲島遺跡第5次調査)
はじめに
「ふくおか」には約三万年の歴史があります。その遺跡は市内だけでも一〇〇〇箇所以上で、これまで二五〇〇件を超える発掘調査が行われました。その多くは開発工事によって失われる遺跡の情報を後世に伝えるための調査です。遺跡の発掘調査は都市開発の代償として進展してきましたが、その成果は一つの調査での歴史的な大発見から、地道な調査の積み重ねによって明らかになってくる歴史まで、実に様々です。調査時には見逃されていたものの、その後の調査研究によって、その重要性が再発見されることもあります。
今回で8回目を迎える企画展示「ふくおか発掘図鑑」では、近年の注目すべき発掘調査成果を中心に紹介するとともに、これまで収蔵庫であまり日の目をみなかった資料にも注目して逸品を掘り起こ
してみました。
縄文時代早期の人々が暮らした谷を掘る
(元岡・桑原遺跡群第58次調査)
縄文の谷
福岡市域の西端、糸島平野の北東部に位置する元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群(西区)の第58次調査では縄文時代早期前半の遺構、遺物が良好な状態で発見されました。約九〇〇〇~八〇〇〇年前の土器や石器が多く出土し、その形態変化を層位的に確認することができました。石を敷き詰めて炉とした遺構や黒曜石を選別して保管した遺構などもみつかっており、縄文時代初期に谷や崖下で暮らした人々の生活の痕跡とみられます。縄文時代早期前半は現在よりも寒冷でしたが、温暖化の途上にあり、市内域でも遺跡が増加しています。人口増加と定住化が進み、弓矢や槍による狩猟とドングリなど植物質食料の採集が活発になり、漁労活動もはじまりました。
甕棺と青銅器を掘る
(顕孝寺遺跡)
続々発見!弥生時代の青銅器
日本列島では紀元前3世紀頃(弥生時代中期初頭)から青銅器をはじめとする金属の使用が本格化しました。初期の青銅器は朝鮮半島に由来するものが多いですが、その流入とともに北部九州でも青銅器生産がはじまりました。有力者のお墓には青銅武器などが権威の象徴として副葬(ふくそう)されました。今年度、史跡公園としてグランドオープンした吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡(西区)がその代表的な遺跡です。その発見の後も福岡市域では初期青銅器の発見が続いています。
青銅武器
(岸田遺跡473号甕棺)
岸田(きしだ)遺跡(西区)は吉武高木遺跡と同じ室見(むろみ)川流域の遺跡ですが、より上流に位置し、弥生時代の生活圏では早良(さわら)平野の最奥地になります。吉武高木遺跡と同時代の甕棺(かめかん)や木棺墓(もっかんぼ)の一部の副葬品として、剣、矛(ほこ)、把頭飾(はとうしょく)(剣の柄(え)の端部に取り付ける金具)といった青銅器が全部で9点みつかっています。このような青銅器を副葬した墳墓(ふんぼ)は早良平野を中心に発見例が増えてきましたが、近年、福岡市東部の多々良川(たたら)流域の顕孝寺(けんこうじ)遺跡(東区)で青銅器を副葬した甕棺墓が発見され、剣と矛など6点の青銅器がみつかっています。
紀元前1世紀以降は銅鏡をはじめとする漢代の文物の流入が増えます。今年度、仲島(なかしま)遺跡(博多区)でみつかった銅鏡は蝙蝠座内行花文鏡(こうもりざないこうかもんきょう)と呼ばれるタイプで、後漢代の1世紀末から2世紀前半頃に華北地域で作られたと考えられている鏡です。弥生時代後期の土器とともに出土しており、弥生時代の年代を考えるうえでも注目されています。