平成29年12月19日(火)~平成30年4月8日(日)
展示の内容
展示期間を二期に分け、平成三十年二月五日に遺物の入れ替えを行います。
前期では
①東京国立博物館展示品
②都市の住人たち
③一括埋納遺物
後期では
④住人の日常
⑤信仰
⑥墓
をテーマとして、内容は
磁州窯壺
①東京国立博物館展示品
資料として優れていると判断されて東京国立博物館でお披露目された陶磁器類を中心に展示します。11世紀後半から12世紀中頃まで白磁の洪水と言われるほど多量に出土する白磁。その後を継いで12世紀中頃から15世紀中頃まで主流だった龍泉窯系の青磁は全国に流通し、絵画にも碗や壺などが描かれています。この白磁・青磁の多くは大量生産品ですが、窯や時期によって異なる色合いを帯びていて、見る人の目を楽しませます。また12世紀は日本国内で陶器の大量生産が始まり生産された陶器が広範囲に流通しはじめる時期にあたり、博多遺跡でも瀬戸・常滑・渥美・東播・備前・十瓶山など中部・中国・四国地方で生産された陶器が出土する他、土師椀、土師皿なども人の移動に伴い近畿や山口地方の土器が出土しています。
②都市の住人たち
11世紀後半以降、商人の街として発展した「博多」ですが、13世紀後半の元寇を契機として鎮西探題が設けられ、九州の政治の中心としての機能を果たすようになりました。そこには探題の北条氏を中心とした武士団が常駐したと考えられます。ここでは中世都市「博多」の住人であった武士・商人・職人に関連する遺物を展示します。武士が使用した武具、商人が取引の際に必要な銅銭や秤や重り、職人が使用した鍋など金属製品の鋳型や鉄滓、ガラスや石製品などの様々な未製品が出土しています。
③一括埋納遺物
博多遺跡では陶磁器が数点から数十点まとまって出土することがあります。これは貿易による「博多」の富が略奪の対象となったことや、当時多かった火事を避けるためと考えられますが、その中で40次調査と124次調査では百点近い陶磁器類が一括埋納されていました。二カ所とも冷泉公園北西側に位置し、当時は博多濱北西端の水際にあたります。そのような場所に埋めたのは、火災による被災を避けるためでしょうか。
これらを埋めた人はなんらかの事情で「博多」に戻ってきませんでしたが、彼らが埋めた一括遺物により私たちは遺物の同時性や当時輸入された陶磁器のセットを知ることができます。
④住人の日常
括埋納土坑
住人たちが日常の生活の中で使用した日常雑器、茶道具、遊具などを展示します。
日常雑器とは調理道具や漆椀など食事に関係する道具類で普段の展示では陶磁器や土器が主となりますが、絵巻物など絵画資料をみると食事では漆椀も多く使われていたことが分かります。また、鏡、毛抜、櫛などの化粧道具や茶を碾くのに使用した石臼や天目茶碗、褐釉の茶入なども出土していて、住民の生活が豊かであったことが分かります。
⑤信仰
信仰に関連するものとして仏像や数珠、舎利容器、経筒など様々な品が出土していますが、珍しいものでは博多小学校の調査でキリスト教の十字架やメダイ(キリスト教の聖人を描いたメダル)の鋳型が出土しています。これは日本に来た宣教師のルイス・フロイスが当時貿易で繁栄していた「博多」を重要視していたことや、「博多」の領主である大友宗麟が沖ノ濱に教会を建てたとする文献を裏付けます。
⑥墓
土製の馬と犬
11世紀中頃から「博多」に住み始めた宋の商人たちの墓は今の聖福寺の所にあって博多百堂と呼ばれていたようです。12世紀から13世紀にかけては中国産陶磁器を副葬する墓が見られますが、集団墓ではなく屋敷墓という形態だったとされます。14世紀以降の墓はよく分かっておらず、都市の中から排除された可能性が考えられています。中世の墓の多くは棺を使用せず、直接墓穴に埋葬しています。棺もほとんどが木製のため腐ってしまい痕跡しか残っていませんが、29次調査で出土した12世紀後半の墓は棺材と担棒や副葬品をいれた曲物が出土して埋葬の様子が良くわかる資料です。庶民の多くは副葬品を持たず時代がはっきりしない墓も多いですが、「頭北面西」で埋葬された例もあり、浄土思想が多くの人に浸透していたことが分かります
参考文献
『中世都市 博多を掘る』海鳥社 2008
今回の展示のテーマや解説等はこの本を参考とする。
展示資料
福岡市埋蔵文化財センター蔵