平成31年1月8日(火)~3月3日(日)
平野国臣像(部分)
はじめに
平成30年度は、明治元年(1868)からちょうど150年にあたります。
明治と聞いて思い浮かべるのはどのようなものでしょうか。この時代には、政治・外交面では幕末の動乱から王政復古、憲法発布と議会のはじまり、日清・日露戦争など、さまざまな変化が生じました。
文化面に目を向ければ、「文明開化」の言葉に象徴されるように、西洋文物の導入がすすみ、建物や人びとの生活を含めた街の風景も大きく変わりました。
明治から昭和の時代を生きた福岡の人びとにとって、「明治」とはどのような時代だったのでしょうか。本展覧会では、慰霊・顕彰事業と街の光景を手がかりに、福岡の人びとからみた「明治」を紹介します。
志士を悼む
慶応三年(1868)11月、15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は政権を朝廷に返上し、翌月には王政復古の大号令が出されました。翌年3月、元号が明治に改められます。ここから、明治時代が始まりました。
明治を迎える前に亡くなった勤王の志士を追悼する動きは、明治初年から起こりました。明治2年には勤王の志士の詩歌を集めた書籍が出版されます。これらの書籍では、全国各地の勤王の志士とともに、生野の変で捕らわれ獄中で亡くなった平野国臣(ひらのくにおみ)や、福岡藩内での勤王派の弾圧事件(乙丑の獄)で切腹した加藤司書(かとうししょ)(徳成)など、福岡藩関係者の和歌も紹介されました。
明治元年11月、藩主黒田長溥(くろだながひろ)は、明治維新以前に国事に尽力した人物を祀る祠(ほこら)を堅粕村東松原(現博多区)に建設しました。後に祠は招魂社と改称され、慰霊祭の一部は公的な行事になります。
明治政府は、明治2年から明治8年にかけて、全国各地の勤王の志士の履歴を取りまとめます。調査は藩ごとに行われ、政府へ提出されました。地域の志士の履歴が明らかになるとともに、『筑前志士伝』のような旧藩を単位とする勤王の志士の伝記集が作成されました。
勤王の志士の慰霊には、慰霊祭のほか追悼文や書画帳の作成など、さまざまな形がありました。
顕彰と追憶
明治23年に出版された『旧福岡藩士殉難烈士追祭寄贈詩歌』は、「乙丑の獄」で亡くなった志士の20年祭に寄せられた詩歌を集めたものです。この本に掲載された祭文では、福岡藩の志士たちの功績を、元治元年(1864)の第一次長州征討の際の①薩摩・長州両藩の接近をはかり(「薩長調和」)、②三条実美(さんじょうさねとみ)をはじめとする勤王派公卿(五卿)の太宰府移転をすすめ(「公卿移転」)、③幕府軍の解散を達成した(「征長解兵」)の3点であるとします。さらに、この3点が明治維新につながったという認識を示しました。福岡藩の志士の慰霊祭は、明治誕生の物語と結び付けられることで、顕彰の意味を持つようになりました。
野村望東尼像
明治政府による志士の顕彰は、明治20年代に本格化しました。明治22年に大日本帝国憲法発布を記念して藤田東湖、吉田松陰、佐久間象山に正四位が贈られたのを皮切りに、贈位者は増えていきました。福岡藩関係者では、明治24年に平野国臣(正四位)、中村円太(なかむらえんた)(従四位)、加藤司書(正五位)、野村望東尼(のむらぼうとうに)(同上)が贈位の対象となりました。これ以降も顕彰の対象となる人物は増えていきました。
政府の顕彰事業を背景に、福岡の勤王の志士の顕彰はさかんに行われました。西公園(現 中央区)には、大正4年に平野国臣、昭和4年に加藤司書の銅像が置かれました。昭和11年に開催された博多築港記念大博覧会の「郷土史館」では、福岡の歴史の一場面として平野国臣と野村望東尼の像が展示されました。志士の顕彰は、「福岡の明治」を思い起こす機会となりました。
明治天皇や明治に起こった出来事も、明治時代を振り返るきっかけとなります。明治天皇の死後、黒田家には明治天皇の「遺物」が下賜されました。また、福岡出身の法制官僚金子堅太郎(かねこけんたろう)は、自らも参画した大日本帝国憲法の発布50年記念によせて漢詩を作りました。
思い出の光景
明治という時代は、記憶となって福岡の人びとの心に残り続けました。そんな明治の思い出を後年に絵に残した人びとがいました。
スケッチ(西中島)
博多川口町(現 博多区)で焼印店を営んでいた内田良蔵は、昭和30年代になってから明治の福岡の景色を墨画で描きました。時期は明治30年代、場所は東中洲、西中島橋を中心とする博多、天神地区です。東中洲には、明治20年の第5回九州沖縄八県連合共進会の開催を契機に、煉瓦造の近代的な建物が並んでいました。西詰に福岡日日新聞社(現 西日本新聞社)の建つ西中島橋近辺からは、十七銀行や、福岡市役所を見渡すことができました。近代化のすすむ市街地を描く一方で、小烏馬場(こがらすばば)にあった光雲神社(明治42年西公園に遷座)や、肥前堀(明治43年埋め立て)など、明治時代にしか見ることのできなかった風景も描いています。
のぞき(絵芝居)
博多中島町(現 博多区)で生まれ、絵画を学んだ後、櫛田裁縫専攻学校の校長をつとめた祝部至善(ほうりしぜん)が注目したのは、昭和の時代には見られなくなった、明治 の博多の街を往来する人びとでした。客待ちをする人力車夫、東公園の井戸から各戸に水を配る「水売」、蓄音機や「のぞき」といった娯楽に集まる人びと。祝部の描く明治の人びとは、どこかユーモラスで活気に満ちています。 (野島義敬)