筑前の女性文化人3―二川玉篠の絵画をゆかりの人々―
平成31年4月23日(火)~令和元年6月16日(日)
資料22 雪梅図
玉篠画・相近賛
江戸時代も後期の文化〜安政(あんせい)時代、福岡藩の武家に生まれた二川玉篠(ふたがわぎょくじょう)は絵画にすぐれ、当時から著名な女性文化人の一人でした。展示では玉篠の作品と、彼女の親族や二川家を取り巻く文化人たちの様々な作品をもとに、近世後期福岡の武家の文化を紹介します。
1、父・二川相近とその事績
玉篠は本名を瀧(たき)といい、父の二川相近(すけちか)は藩の書道方(しょどうかた)でした。もともと二川家は藩の料理方に勤めていましたが、相近の父・相直(すけなお)は7代藩主黒田治之(くろだはるゆき)の時代に学識と実務の力を認められ、天明(てんめい)3(1783)年に料理方の職務制度の改革や藩校の設立について意見書を書いています。
その子・相近は早くから福岡藩儒学者(じゅがくしゃ)亀井南冥(かめいなんめい)の弟子となり、南冥の子・昭陽(しょうよう)とともに漢詩(かんし)などで才能を現しました。
相近と、亀井一族や南冥に学んだ同世代の好学の人々とは生涯交流が続き、娘の玉篠の生涯にも影響しています。ただ相近は漢学だけでなく、国学(こくがく)者の田尻梅翁(たじりばいおう)の弟子となり、万葉集(まんようしゅう)や古今集(こきんしゅう)などをもとに、和歌を生涯学び続けました。
天明3年中の父の急死で、料理方を相続した相近は、生前に受けた親のアドバイスもあって書道に精進し、その上達は9代藩主黒田斉隆(くろだなりたか)と藩庁にも認められ、相近のために新設された書道方に就きました。以後の相近の仕事は、斉隆の死により僅(わず)か1才で10代藩主となった斉清(なりきよ)の教育に供するため、藩の歴史書『黒田家譜(くろだかふ)』や、そのほか文化的な書物の清書などを行いました。しかも書道では工夫を重ね、博多の東長寺(とうちょうじ)の空海(くうかい)の真筆を手本に、二川流といわれる独自の書法を確立しました。相近は斉清が好んだ音楽の研究も始め、日本の古典などに題材した譜を付けるなど、筑前今様(ちくぜんいまよう)の元祖的な存在となります。
2、玉篠の生い立ちと絵画作品
資料28 菊図 玉篠画
玉篠は文化(ぶんか)2(1805)年に生まれ、幼くして母と兄を失いましたが、9歳上に相近の学問の秘書的(ひしょてき)な役を果たした姉の鶴(つる)がいました。玉篠の生まれた前後から、相近は実母の死や、病気がちなため福岡・唐人町(とうじんまち)の自宅の屋敷にこもり、以後30年の間、自宅から出ず隠者(いんじゃ)のような生活を送ったりしました。その間は今様の研究や、書道の「千字文(せんじもん)」を記すなど藩主のための御用を勤め、学問に厳しく集中する日々を送ったといわれます。そのため自宅には雅な和風の庭をつくり、尊敬する「徒然草(つれづれぐさ)」の作者で隠者・吉田兼好を祀る石碑や信仰する稲荷社を建て、蹴鞠場(けまりば)も造り、桜、楓(かえで)、梅、柳など四季の木々を植え、特に桜と楓を愛しました。
玉篠は父と姉の薫陶(くんとう)と教育を受けていたといわれ、姉妹ともに当時、父が研究していた音楽にあわせ、琵琶や琴などの演奏を修練しました。また玉篠は、大変活発な幼年時代をすごし、成長しては蹴鞠を好んだそうです。その時期の玉篠の絵画や書道の習作は、現在一部が綴じて残されていますが、やがて玉篠は本式に絵画の道を目指します。父の相近は、画幅や書物の挿絵に文人画の四君子(しくんし)(梅、菊、蘭(らん)、竹)や桜、楓を巧みに描きました。二川家の屋敷に咲く四季の木々や草花も題材にされたのでしょうか。
玉篠も父の指導や影響を受けたと推測され、現在残る絵画は梅、桜、菊などがほとんどです。そのうち雪梅図(せつばいず)は古梅に雪が積もった様子を墨の濃淡やデフォルメにより大胆に描いています。後世、玉篠の絵画は人々から力から強い構図と描写で、当時の文人画の男性的な描写に精通していたと評されました。
さらに玉篠の絵画のもう一つの特徴は、画面のなかに相近が絵を褒めた短い言葉である賛(さん)文が彼の達筆(たっぴつ)で記されていることです。資料22には、絵画の情景を漢詩風の文章で「梅と雪が争って春を告げている、人はみな騒いで,一筆それらを評した文章を書こうとする」と記され、資料23には和歌で「まだ咲かない軒端(のきば)の梅に、鶯(うぐいす)が乗るたびに散らされる春の淡雪(あわゆき)だなあ」といった文章が記さています。娘の絵画に父の書跡が加わったこれらの合作は、相近の死去以前、玉篠が30歳になる前の作品です。