平成12年3月28日(火)~7月30日(日)
博多人形について
博多人形の制作方法は、まず粘土で人物像等の原型を造り、石膏で型を取り、その型に粘土を詰めて型を抜き、生地(きじ)(人形物等)を制作します。型抜きは高級人形で50個ぐらいです。そして生地を900度ぐらいで焼成し、彩色して人形を完成させます。このような近代的な制作方法になったのは明治期の終わり頃と思われます。
ところで型抜きによる大量生産方式についてみてみますと、江戸時代を中心に最も町人文化が栄えた文化・文政年間(1804~30)にはすでに行われていたようです。この頃博多では「宋七焼」の4代正木宋七幸弘、中ノ子タミの祖である人形師の中ノ子吉部衛、そして白水八郎の祖である人形師の白水仁作らが活躍しています。白水仁作が制作したと思われる「武悪面型」や、安政4年(1857)に白水武平が制作した「鍾馗面型」をみますと、粘土で造られた型によって大量生産が可能であったことがわかります。今日の型抜きの制作方法と同じです。
つぎに名称については、明治5年(1872)の『福岡県地理全誌』には「土人形」、明治13年(1880)の『福岡区地誌』には武平が居た博多下小山町(しもおやままち)の項に「焼物人形類」とあります。「博多人形」と呼ばれるようになったのは明治23年(1890)の第2回国内勧業博覧会の賞状に「博多人形」と記載されてから一般化したといわれています。
博覧会等で入選するには芸術性が高くなくてはいけません。そのために人形師は九州帝国大学(現・九州大学)医学部で解剖学を学んだり、色彩を洋画家の矢田一嘯(やだいっしょう)、そして造形については博多出身の彫刻家山崎朝雲の指導を受けたりしています。石膏で型を取る方法は朝雲の技術指導と思われます。朝雲愛用の住所録には白水六八郎、小島興一、原田嘉平らの名前が見え交流が窺えます。また井上清助が人類学者坪井正五郎の協力を得て視聴覚教材としての風俗人形や服飾人形を制作し、博多人形の普及に尽力したことは見逃せません。
昭和41年 福岡県文化財保持者に認定される。 左から置鮎與市、小島與一、白水八郎、原田嘉平、中ノ子タミ |
このようにして芸術性や完成度を高めて、広く知られていくのですが、今日の博多人形の繁栄を築いたのは中ノ子タミ、小島興一、原田嘉平、置鮎興市そして白水八郎の5人でしょう。昭和41年8月、福岡県教育委員会は、「博多人形のすぐれた美しさ、技方をもっともよく伝えている人形師」という理由で、5人を福岡県無形文化財に指定しました。いわば、”人間県宝”となったのです。