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No.209

歴史展示室、黒田記念室

絵図に見る城下町福岡

平成14年9月18日(水)~11月17日(日)

絵図にみる城下町福岡城
 福岡市は中世以来の国際貿易都市博多と、江戸時代に造られた城下町福岡がもととなって、明治時代にうまれた市です。今回の展示では、この城下町の中心である、福岡藩主黒田(くろだ)氏の居城(きょじょう)福岡城ができて、約400年経つことを記念し、本館が収蔵している福岡城関係の絵図を中心に、九州各地にある貴重な絵図や古文書(こもんじょ)を併せて展示します。江戸時代はじめから、近代に至る福岡城と城下町福岡の変遷(へんせん)を、残された様々な資料から紹介します。

第1室 黒田展示室
1、豊前中津(ぶぜんなかつ)から筑前福岡(ちくぜんふくおか)へ
 天正(てんしょう)15(1587)年年黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から豊前国(現大分県)6郡を与えられ、翌年から水陸交通に便利な中津の地に城を築きました。孝高は秀吉の智恵袋といわれ、経済や交通に焦点を絞った城作りをしたと言われます。その子・黒田長政(ながまさ)は、慶長(けいちょう)5年(1600)年の関ヶ原の合戦で、東軍徳川家康(とくがわいえやす)に味方し、勝利にみちびいた功績(こうせき)で、筑前1国を与えられ、その年の12月に父如水とともに、名島(なじま)城(現福岡市東区)に入りました。名島城は中国地方の毛利(もうり)氏の1族で、如水と親しかった小早川隆景(こばやかわたかかげ)が築いた城で、3方を海に囲まれ、水軍が海路をにらむ海城でした。しかし黒田氏の多くの家臣団を住まわせるには狭く、しかも、古くからの港湾・商工業都市の博多(はかた)とは遠すぎるため、如水と長政は、博多の西隣の福崎(ふくさき)の地を選び、新たな城と城下町を造ることにしました。



9 野口1成像
(中村政義氏蔵)


23 筑前国福岡城図
(九州大学九州文化史研究所蔵)


18 寛永年間福岡城城下図

2、福岡築城と家臣団
 築城は、夏頃から始まり、はじめは石垣用の石材や材木などを集めたり、名島城から利用できる資材を運んだりすることから始まったようです。また福崎の丘陵の一部を赤坂山から切り離す工事も行われました。
 8月からは石垣が築かれ、長政は9月からは本丸の天守台(てんしゅだい)に取りかかる様に命じています。このとき、家臣の中で中心的な役割を果たした人物に、野口一成(のぐちかずなり)がいます。かれは佐助(さすけ)とも呼ばれ播州(ばんしゅう)(現兵庫県)の加古(かこ)川出身で、如水・長政に古くから従って武功を立て、筑前入国時には2500石を与えられています。しかし同時に築城技術、とくに石垣作りの名人だったといわれ、長政はかれに様々な指示を残しています。
 もう1人、三奈木(みなき)(現甘木市)などで、家老の1人として当時1万石を与えられた黒田一成(くろだかずなり)は、上方に登っていた長政の意向を受け、国元で大工、野口などの普請奉行に指示を与える、いわば監督の仕事を命じられています。このように、築城は武士にとっても、戦と同じく、その石高等に応じて、役目をはたしていたのです。なお、慶長7年春頃には天守の柱立てがおこなわれたたようです。これらの記録から、かつては、天守台だけ造られて、建築されなかったといわれていた福岡城の天守も、存在していたのではないかとする説が有力になっています。
 このようにして、慶長7年夏には本丸も完成し、それまで夫人とともに東丸(ひがしまる)(現在の福岡地方裁判所付近)に仮に住んでいた長政は本丸に移りました。また、この東丸には家老の栗山備後(くりやまびんご)の屋敷が置かれ、この年、ここで後の2代藩主忠之も生まれました。なお東丸は、のちの忠之と備後の子・大膳が対決する黒田騒動の舞台となることで有名です。

3、幕府の手伝い普請と黒田氏
 徳川幕府は、外様大名、とくに黒田氏など、はじめは豊臣家に従っていた大名に対する統制を強めていきました。その手段のひとつが、幕府の重要な城の築城の手伝いを命じることでした。慶長11年、将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の居(きょ)城、江戸城の普請には、野口の他、黒田家の武士の中でも、名槍(めいそう)・日本号(にっぽんごう)の呑み取りの豪快さで有名な、母里太兵衛(もりたへえ)がつとめています。そして将軍秀忠が太兵衛に賞詞を与える時に、毛利(もり)と記したことから、長政が毛利但馬(もりたじま)と名乗ることを許したのです。この後も家康の隠居城である駿府(すんぷ)城(現静岡市)や、家康の9男でのちの義直(よしなお)の居城名古屋(なごや)城築城などがつづき、長政はその忠誠を試されることとなるのです。
 そして、長政時代の極めつけは、慶長20(1615)年の大坂(おおさか)夏の陣で灰燼(かいじん)に帰した大坂城の再建です。元和6(1620)年に始まったこの工事では、焼け落ちた豊臣氏時代の大坂城すべてが埋め立てられ、新たな徳川氏の大坂城が築かれたのです。黒田長政も、家老クラスの監督者を送って、石垣建造などに力を入れます。この時期、、江戸にあがった長政が、将軍秀忠の前で、自分の福岡城の天守を崩してきた、といった噂がながれた事が、当時小倉の藩主だった細川(ほそかわ)氏の記録にあります。また同じく細川氏の関連文書では、天守閣を崩して大坂城建設の資材としたのではないか、という噂もあったという史料も発見されています。

4、近世前期の福岡城
 では続いて、2代藩主忠之(ただゆき)、3代藩主光之(みつゆき)の時代の福岡城の変遷をみてみましょう。現在のこる福岡城の1番初期の絵図は正保(しょうほう)3年に幕府へ提出された城絵図の控(ひか)えで本館に収蔵する黒田家資料に残されています。横幅が5メートルもある巨大なものです。この中にはすでに天守台と記され、天守閣の絵は有りません。そして、二の丸西の石垣下には、忠之が本丸から移した、藩主の居館(きょかん)ができています。その後、そこは老朽化し、火災の場合には本丸をも類焼させるおそれがあるとして、寛文(かんぶん)9(1669)年には光之が解体し、同11年には三の丸の西北のもとの侍(さむらい)屋敷地に、光之の居館を建てました。ここは後の時代まで、何度も立て直されながら「御下屋敷(おしたのやしき)」と呼ばれ、福岡藩主の日常生活の場所となりました。このほか、寛文11年からは、荒戸山東下の、藩の舟入に波戸(はと)が築かれ、軍港としての機能が増しています・

5、一国一城令と六端(ろくば)城
 さて黒田長政が筑前に入ってきた時に、福岡城の他に、豊前との国境沿いなどに6カ所の支城を築かせ、栗山備後や母里太兵衛など、2万石に近い大所領をもつ家老に守らせました。太兵衛は自分の大隈城が大変気に入っていたようで、富士山よりも自分の城から見える福智山地の山々の方が高いと言い張ったり、もしも敵が攻めてきたら、大隈で一防ぎし、本隊に合流すればよいので、石垣は簡単に築け、という長政の命に逆らって、城を敵に渡すような普請はしないと広言したという話も、伝わっています。元和(げんな)元年に幕府から、一国一城令が出され、筑前でも福岡城を除いて、6端城すべてが壊されました。そして大名の領内もその居城ひとつに、政治経済の中心が集まる仕組みに成っていきます。ちょうどこの年、毛利但馬(母里太兵衛)も死去し、戦国の豪傑とともに、大隈(おおくま)城も消えることとなりました。

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9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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休館日
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(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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