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No.209

歴史展示室、黒田記念室

絵図に見る城下町福岡

平成14年9月18日(水)~11月17日(日)

第2室 歴史展示室
6、城下の繁栄と変遷
 ここでは、17世紀も終わりの元禄時代から、19世紀前半までの、福岡城と城下町福岡の変遷を紹介します。元禄(げんろく)時代は、いわゆる天下泰平の時代で、光之とその子・黒田綱政(つなまさ)の時代です。この時代に描かれた海陸交通路の絵巻には、九州各地の城下町の中でも一段と大きく、福岡城が記されています。しかし享保(きょうほ)17年の大飢饉(だいききん)では、城下町の一般庶民を中心に多くの餓死者を出し、人口も減少しました。18世紀終わりの寛政(かんせい)時代末には、荒戸(あらと)山西下の波奈の湊の波戸が鍵方に折れ曲がる工事がされています。また波奈の湊は時代とともに水深の埋まりが強くなり、その浚渫(しゅんせつ)が問題になります。19世紀に入ると、ふたたび迫り来る西洋諸国へ対する海防の重要性が説かれ始め、城下町福岡でもふたたび本来の防御機能が研究され始めたようです。
 福岡城の立体的な姿を伝える絵画については、あまり現存が無く、わずかに黒田資料の中の「福岡図巻」が、博多湾からみた17世紀末の福岡城様子を伝えています。19世紀にはいり、博多町人の奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)は、「筑前名所図会(めいしょずえ)」のなかで、城下町福岡の様々な部分を描いています。残念ながら藩の機密として、城郭部分はありませんが、それでも堀端や武家屋敷の風情が窺えます。しかしそれでも詳しすぎると、藩からは出版許可が下りなかったそうです。

7、福岡城内の様子


24 福岡御城下絵図
(福岡県立図書館蔵)


39 福岡城内図


44 福岡城御下屋敷(部分)


34 福岡御城下絵図

 福岡城内に関する絵図を紹介します。現在、福岡城内だけの絵図としては、元禄時代に幕府に提出された国絵図との関わりが指摘される、城内絵図が残されています。これには国絵図とおなじ12の方位線(ほういせん)が、天守台から引かれるなど、地理的な精度もさらに上がっています。城内の配置が正保の絵図と異なる所は、寛文11年の藩主居宅が三の丸西北に建てられていることです。現在残るのは、幕末の頃の御下屋敷図です。光之によって移された三の丸居館は、その時代にふさわしく華美なものだったようです。しかし宝暦(ほうれき)13(1763)年城内の火災により居館も全焼し、当時、藩財政建て直しに必死だった6代藩主継高(つぐたか)は、長政時代の質素な居館作りを命じたそうです。しかし、その後に9代藩主として、将軍の一族・一橋(ひとつばし)家から斉隆(なりたか)を迎えるため、居館も光之時代のように広げられ、寛政(かんせい)5年に完成しました。居館内は、藩主とその家族のいる奥の部分と、玄関や大書院と呼ばれる大広間、能舞台のある表の部分とに分かれていました。ここには正月、博多町人の松囃子(まつばやし)の行列もお祝いに訪れました。
 近世後期の福岡城本丸の屋敷図も残っています。ここにはやはり、北の表御門、東北角の祈念(きねん)櫓、西北角の時計(とけい)櫓、裏御門の太鼓(たいこ)櫓、南側の武具(ぶぐ)櫓などに囲まれた城郭としての防御施設であり、ほかに本丸御殿も建てられていました。その釈迦の間での異見会は、黒田長政が始めたもので、家臣に自由に意見を言わせる、別名「腹たてずの会」と言われました。6代藩主継高や9代藩主世斉隆のとき、再開されたりしています。
 このほか三の丸以内の城郭図が幾つも残されています。三の丸には御下屋敷のほかは、大身の家老屋敷が建ち並んでいました。福岡城は三の丸、二の丸、本丸とすべて段差のある作りで、しかも二の丸以上はすべて石垣という、堅固な城でした。その様子は近世後期の軍学者たちの残した絵図でよく分かります。

8、城下に生きた人々
 ここでは城下町のうち、武家屋敷地や、町屋に住んでいた人々の、日常生活の一端を紹介します。
 荒戸通町から五番町と呼ばれ、500石前後の武士たちの屋敷地が区画された地域の、明治6年の大絵図が残されています。当時は整然と並ぶ屋敷がたち並び、その様子は「筑前名所図会」でも窺えますが、江戸時代の当時の屋敷の区画が、明治時代になってだんだんと細分されている様子も窺えます。
 福岡藩の藩校と言えば、天明4年に建てられた修猷館(しゅうゆうかん)が有名です。ここでは、長政の時代の武士の理想をもとに、学問の方針「学規(がっき)の序」が掲げられ、儒学を中心とした初等教育が行われています。
 福岡の町人町は唐津街道沿いや、湊町(みなとまち)などにひろがっていましたが、その中でも、加瀬(かせ)家は湊町で酒造業等をいとなみ、福岡の町役人である年寄や、年行司(ねんぎょうじ)をつとめたほか、福岡での困窮者救済にも力を尽くしています。また一般の庶民については、18世紀中頃の「筑前国孝子良民伝(こうしりょうみんでん)」や幕末の時代の「筑紫遺愛集(ちくしいあいしゅう)」の中に、善行人、孝行者などといった理由で藩に表彰された人々が紹介され、その短い略歴に添えられた挿絵によって、当時の町人や職人、大店で働く奉公人などの姿をかいま見ることができます。

9、幕末から近代の福岡城
 幕末の福岡藩は、勤王(きんのう)派と幕府に忠節を尽くす佐幕(さばく)派の対立があり、勤王派が壊滅したことによって、明治維新ではあまり力をふるえませんでした。初期には三の丸の御下屋敷が県疔に使われましたが、その後は櫓なども、多くは払い下げられたり、移築されました。城内には陸軍(りくぐん)の鎮台(ちんだい)もおかれ、後に司令部なども置かれました。また堀なども、福岡の近代化のために開かれる共進会などの会場としてうめたてられます。明治時代には、現在の天神周辺の中堀(なかぼり)・肥前(ひぜん)(佐賀(さが))堀(ぼり)などで蓮根(れんこん)が栽培され、その収益金は、藩校の系譜を引き継いだ、黒田家が運営する中学修猷館の経費として当てられたりしています。そして堀が埋め立てられると、中学校も官立に移行しました。
 福岡の海岸部も埋め立てによって港湾の機能が拡大し、だんだんと現在の様な市域になっていきます。昭和初期の様子は、当時はやった、市域全体の観光用の鳥瞰図(ちょうかんず)で窺(うかが)うことができます。

(楠田 恵・又野 誠)

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