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No.305

美術・工芸展示室、考古・民俗展示室

博多を掘る

平成19年9月4日(火)~平成20年1月14日(月祝)

人が集い モノが集う
 博多遺跡群では遠く現在の韓国西部にあった百済や、現在の平壌にあった中国王朝の直接支配地域である楽浪郡からもたらされた土器が出土しています。これらの土器は燻された瓦のような色調が特徴的です。
 奈良盆地では庄内式土器とよばれる、非常に薄手で軽い甕が作られました。この奈良盆地産の庄内甕は単に福岡平野に持ち込まれただけでなく、在地の土器作りにも影響を与え、庄内甕とよく似た甕が作られるようになりました。
 また口の断面形が「S」の字形のS字甕が出土しています。この土器は主に濃尾平野で作られていた土器です。そのほか山陽・山陰地方や四国の土器も博多遺跡群から出土しています。これらの土器は人の移動とともに何かを入れた容器として博多に持ち込まれたものであり、当時の博多は各地の人やモノが集う場所だったといえるでしょう。


3.博多に古墳のつくられる頃

 現在はビルの建ち並ぶ博多に古墳があったといっても想像しにくいのではないでしょうか。しかし、そんな博多にも「古墳時代」はありました。古墳時代に最初につくられたのは方形周溝墓という棺の周囲に四角く溝を巡らせたお墓です。墓といっても一辺が20m前後と大きく、溝の中は盛り土があったとみられ古墳と遜色のない規模のものです。



方形周溝墓

博多における方形周溝墓
 この遺物を出土した方形周溝墓は聖福寺の正面の参道と大博通りが交わる地点で発見されました。古墳時代初めごろ、前方後円墳は那珂八幡古墳など一部の古墳に限定されていました。同じような方形周溝墓は地下鉄藤崎駅周辺の藤崎遺跡でも発見されていますが、こちらからは三角縁神獣鏡など古墳に匹敵する内容の副葬品が発見されました。古墳のなかでは前方後円墳のランクは高く、博多の方形周溝墓の主は那珂八幡、藤崎に次ぐ社会的地位にあったのかもしれません。


鏡と玉
 古墳の副葬品といえば鏡・玉・剣などが想像されますが、博多遺跡群からは墓と断定できない遺構から、古墳に副葬されるような鏡や玉、鉄製腕飾りが出土することがあります。大きな墓をつくらない人もこうした装飾品を所持していたためなのか、あるいは墳丘が後の時代に破壊されてしまったためなのかもしれません。また鏡の破片が出土することがあります。鏡は、破片であっても大切にされたとみられ、やはり墓に副葬されたと考えるのが自然でしょう。


博多にあった前方後円墳

 古墳時代中期になると博多にも前方後円墳がつくられました。現在の祇園町交差点東側、現在はビルの建つ場所から発見されました。石室は破壊されて残っていませんでしたが、出土した埴輪と、前方後円形に残る葺き石の痕跡から全長50m以上の前方後円墳であったと推定され、博多1号墳と命名されました。この古墳は博多遺跡群で最大規模であっただけではなく、古墳時代中期の御笠川流域で最大の前方後円墳でもありました。

これはいったいなんだろう?
 博多1号墳のほかにも国体道路南西側に沿っていくつか埴輪が出土した地点があり、痕跡は確認できませんが、何基か古墳があったと推測されます。古墳時代終わり頃には墳丘をもつ古墳はつくられず、人々は小さな石室や木棺墓に葬られるようになります。
 埴輪には筒状をした「円筒埴輪」、円筒埴輪のうち上の部分が外側にラッパ上に広がった「朝顔形埴輪」、家の形をした「家形埴輪」、人をかたどった「人物埴輪」などがあります。博多1号墳から出土した家形埴輪は、他の古墳から出土した埴輪から推定し、左のような形をした家だったと考えられています。
 さてここに並んでいる破片は、家形埴輪のどの部分にあたるのでしょうか?

塚を持たない墓
 博多1号墳やそれに続く埴輪をもつ古墳のあとは大きな墳丘をもつ古墳はつくられなくなり、代わって小さな石室や、木棺墓に葬られるようになりました。副葬品は須恵器や小刀などの鉄器であり、副葬品を伴わない墓も多くみつかっています。これらの墓のなかには、博多1号墳のようにかつてつくられた大きな古墳のそばに設けられたものがあります。


4.博多で交わる国と国

 朝鮮半島は4世紀頃から百済・新羅・高句麗の三国の鼎立する三国時代でしたが、7世紀になると、唐と新羅の連合軍が百済、ついで高句麗を滅ぼし、新羅によって朝鮮半島が統一され、統一新羅と呼ばれる時代になりました。百済を救援した倭国も白村江の戦いで敗北し、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて、水城や朝鮮式山城を築くなど国際情勢が緊張した時代でもありました。
 博多遺跡群は古墳時代以降も集落が祇園駅付近につくられ続けており、新羅時代の印花文土器や高句麗の土器が出土しています。特に高句麗土器は日本では唯一の出土例とされています。どのような状況下でもたらされたものかは分かりませんが、緊張下にあっても博多は各国の人々が集う場所だったようです。
 博多での国際的な交流はその後も続き、奈良時代から平安時代には統一新羅時代の陶質土器樽形壺が出土しています。この瓶は鴻臚館出土のものと類似しており、鴻臚館の時代になっても博多が交流の場として一つの役割を果たしていたことを示すものでしょう。
(赤坂亨)

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