平成21年2月3日(火)~平成21年4月5日(日)
北部九州における埴輪の広まり
岡山にルーツを持ち、奈良で独自の発展を遂げて誕生した埴輪ですが、4世紀後半には円筒・朝顔形埴輪だけでなく、家・武具・儀式の道具などの形をした埴輪も出現します。こうした埴輪群を古墳に並べる文化は、奈良からやがて全国へと広がっていきます。4世紀の終わり頃には、福岡をはじめとする北部九州にも古墳に埴輪が並べられるようになります。
それ以前の3世紀後半から4世紀の北部九州にも古墳はありましたが、壺や、壺の形をした埴輪=壺形埴輪が並べられていました。4世紀末ごろから壺形埴輪と円筒埴輪が併存するようになります。
南区の老司(ろうじ)古墳と西区の鋤崎(すきざき)古墳は4世紀末~5世紀初めのほぼ同時期の古墳ですが、老司古墳の埴輪列は壺形埴輪が大半であるのに対し、鋤崎古墳の埴輪列は円筒埴輪が大半であるというように、各古墳において受け入れ方に違いがありました。やがて5世紀にはいると畿内で成立した埴輪群を北部九州の古墳でも樹立するようになります。
釜塚古墳石見型盾形木製品出土状況 |
古墳に立てられたものは埴輪だけではありません。奈良県磯城郡三宅町(しきぐんみやけちょう)にある石見(いわみ)遺跡で発見された石見型盾形埴輪(いわみがたたてがたはにわ)とよばれる埴輪とよく似た形の木製品が、奈良県橿原(かしはら)市にある四条(しじょう)1号墳の発掘調査で発見されました。木製品であって埴輪でないので、石見型盾形木製品とよばれています。この石見型盾形木製品が前原(まえばる)市の加布里(かふり)駅前にある釜塚(かまつか)古墳の周溝から出土しました。石見型盾の最古形は5世紀前半の三重県松坂市宝塚(たからづか)1号墳の船形埴輪にみられるものですが、釜塚古墳も5世紀前半から中頃の時期であり、石見型盾形木製品としては日本でも最も古いものの一つといえます。
動物埴輪は5世紀に入って最初に犬・猪が、5世紀中頃になってようやく人物埴輪や馬形埴輪が畿内で登場し、5世紀後半に全国へと普及します。
埴輪誕生当初はメスリ山古墳のように棺の周りを囲むような形で古墳の墳頂部に埴輪を配置していましたが、人物埴輪や馬形埴輪の時期になると堤の上や墳丘の側面など、外から見える場所に配置するようになりました。これは埴輪の役割が、当初は被葬者を隠す、あるいは被葬者への接近を阻むといった、補助的なものだったのが、人物・馬形埴輪の時期になると、埴輪自体を外の人間に「見せる」という新しい役割が与えられるようになったためと考えられています。
またこの頃、須恵器の技術が埴輪製作にも応用され、それまで野焼きしていた埴輪が、専用の登り窯で焼かれるようになりました。佐賀県唐津(からつ)市の仁田(にた)古墳群でも埴輪窯が発見されていて、この埴輪焼成技術が北部九州にも広がっていたことが分かります。
6世紀は全国的に古墳の増加する時期ですが、石室を壁画で飾る装飾古墳や、石人石馬(せきじんせきば)という石製品を古墳に立てる文化が九州で盛行したためか、北部九州では埴輪を樹立する古墳は一部にとどまりました。そして6世紀中頃を最後に福岡市周辺から埴輪は姿を消します。那珂川(なかがわ)町小丸(こまる)1号墳の器台形埴輪は円筒埴輪が形骸化したものとみられ、埴輪の最後の姿を伺わせます。
人物埴輪(東光寺剣塚古墳出土) | 人物埴輪(東光寺剣塚古墳出土) |
どこにある? ~福岡市内の埴輪古墳~
福岡市内は古くから開発が進んだため、記録にも残らずに消えてしまった古墳がたくさんあり、工事の際に埴輪が出てきてはじめてそこに古墳があったことが判明したという例がいくつもあります。
今は市街地化している井尻、竹下駅東側、博多区祇園(ぎおん)町の国体通り沿いなどで埴輪が発見されています。特に博多は、博多1号墳という前方後円墳があったことや、来歴に謎の多い女性埴輪頭部が発見されるなど、埴輪古墳の多い地域であることが分かってきました。あなたのなじみの場所の土の下に、展示した埴輪の仲間が今も眠っているかもしれませんよ。
(赤坂 亨)