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No.382

黒田記念室

黒田家のご先祖さがし

平成23年3月8日(火)~4月24日(日)

3、ご先祖のお墓発見
 「家譜」完成後も黒田家は先祖調査を止めませんでした。「家譜」の記述を裏付ける何か確固たる物証を発見するためだったのか、継続して姫路等で調査を行っています。
 その成果が表れたのは天明(てんめい)3(1783) 年秋、姫路城の東南に位置する妻鹿(めが)村(現兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆の墓石が発見されます。知らせを受けた福岡藩は早速役人を姫路に派遣して、周辺に玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を新築するなど、墓所を整備しました。
 さらに、寛政(かんせい)5(1793)年夏には、御着(ごちゃく)村(現姫路市御国野町御着)天川久兵衛(あまかわきゅうべえ)屋敷内から、職隆夫人と、職隆の父とされる重隆の墓碑(石蓋)が見つかります。この場所は、黒田氏のかつての主君小寺(こでら)氏の居城の近くで、「筑前様御部屋跡(ちくぜんさまおへやあと)」といわれていた場所でした。福岡藩は今回も墓所の調査を行い、墓石を新たに建立しました。
 この時期はちょうど9代藩主斉隆(なりたか)の藩主就任(天明2年)と筑前(ちくぜん)への初入国(寛政5年)と重なっており、先祖墓所発見によって藩内がさらに盛り上がったことは想像に難くありません。
 一方、墓所改修に関わった福岡藩士山口武乕(やまぐちたけとら)は、仕事の合間に各地を訪ね、播磨国多可(はりまのくにたか)郡黒田(くろだ)村(現兵庫県西脇市黒田庄)が福岡藩主黒田家の故郷なのかも知れないという伝承を得て、それを書き留めています。「黒田家譜」と矛盾する内容を家臣が独自に調査して記録している例として興味深いものがあります。


4、家臣もご先祖さがし
 先祖調査をしたのは大名(だいみょう)だけではありません。家臣達も自分たちの先祖を探してそれぞれが独自に調査をしています。
 彼らを突き動かした動機は、端的に表わせば、先祖の功績を証明するため、ということになります。福岡藩の場合、明和(めいわ)元(1764)年に家臣の履歴(りれき)を整理するため、家督相続の際に「明細書(めいさいしょ)」という紙を提出することを義務づけます。ここにはいつから黒田家に仕えているのか、家の歴史が明記されました。その経歴によって、職務が決まったり、藩主法要の参加資格を得たり、家中での立場が左右されました。家臣にとっての先祖調査は大名のそれよりも、より実質的な意味合いが強かったと言えるでしょう。


おわりに
 重隆・職隆の墓所の存在が明らかになりつつあった頃、幕府による「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」の編纂が始まります。黒田家は、寛政3、5、12、享和(きょうわ)元(1801)年と改訂を加えながら幕府に系図を提出しましたが、高宗と重隆の間は「此間断絶」のままで、「寛永諸家系図伝」からの変更は認められませんでした。代数が足りないというのがその理由でした。黒田家の先祖調査は「黒田家譜」の編纂と墓所発見等によって様々なことが明かになりましたが、それは幕府を動かす情報にはならなかったのです。
 一方では、黒田家の家臣達も主君との近さを証明するため先祖調査に励みました。そこでは証拠となる古文書等が用意できたためにすんなり認められる場合とそうでない場合が見られました。江戸時代の武家の先祖調査の裏側では、系譜をめぐる悲喜交々(ひきこもごも)が様々な階層で存在していたのです。
(宮野弘樹)

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