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No.444

企画展示室1

ふくおか門ものがたり

平成27年2月3日(火)~平成27年4月5日(日)

 門とは何でしょうか。岩波書店の『広辞苑』では「家の外構えに設けた出入口」と説明されています。しかし、家だけではなく、ムラやマチにも門がありました。そこで、門は「領域あるいは敷地の外構え(柵や築地(ついじ)など)に設けた出入口」と規定することができるでしょう。同じ出入口でも建物の一部である玄関は門とはいいません。
 弥生時代の環濠集落(かんごうしゅうらく)には門がありました。環濠によって外部と明確に区画されていることから、この門は日本最初の門といえるでしょう。その後、宮殿や役所、寺院や神社、城、邸宅などに設けた門は、防御目的とともに身分や格式を象徴するものとなり、時には記念碑的な門がつくられることもありました。
 この展覧会では、古代、中世、近世、近代、現代の各時代を代表する福岡の門を紹介し、門の役割と歴史を探っていきます。

古代 鴻臚北館(こうろほっかん)の門楼(もんろう) <役所の門>

博多町人・初代大田清蔵像
1 鴻臚北館の門楼(想像CG)
 比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)のトップ・第五代天台座(てんだいざ)主(す)を務め、のちに寺門派(じもんは)(三井寺(みいでら))の祖とされる智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)(814-891)は、仁寿(にんじゅ)3(853)年に入唐(にっとう)し、天台山や長安などで密教を学び、858年に帰国しました。この年の10月、同船した唐商人たちは、鴻臚北館(現在の舞鶴公園の一角)の門楼(二階建ての門 図1)の上で、比叡山に帰る円珍と送別の飲茶パーティを催しました。その一人高奉(こうほう)は、「昨日鴻臚北館門楼遊行一絶」と題し、「鴻館門楼掩海生/四隣観望散人情/偶然聖梨遊上嬉/一盃仙薬奉雲青」という七言絶句の漢詩を詠んでいます。鴻臚北館の門楼は海を掩(おお)うように姿を現し、四方の眺めは人の情を慰める。偶然に聖梨(円珍のこと)と楼上に遊んだ嬉しさよ。一盃の仙薬として雲青(うんじょう)(群青色=茶のことか)を奉る、という意味でしょう。
 古代の迎賓館(げいひんかん)・貿易商館であった鴻臚館(こうろかん)(7世紀後半~11世紀中葉、国史跡)に関する記録が極めて少ないなか、この漢詩は博多湾岸にそびえ立つ北館の門楼、楼上での茶会の宴(うたげ)が記された貴重な史料です。門にはこんな使い方もあったのです。

中世 都市博多の門 <マチの門>

ふくおかの門 関係地
 応永(おうえい)27(1420)年に朝鮮国王の使者として博多を訪れた宋希璟(ソンヒギョン)は紀行詩文集『老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)』を残しています。そのなかで、宋希璟は「門を作る」と題し、「殊方主将喜吾行/為起高門著至誠/老稚喧呼看華使/盈庭見後又盈庭」という七言絶句の漢詩を詠んでいます。殊方(しゅほう)の主将は吾(わ)が行(おこな)いを喜び、為(ため)に高門を起(つく)りて、至誠を著わす…という意味でしょう。
 この漢詩の詞書には「朴加大(はかた)(博多)は城なく、岐路(きろ)は皆虚(みなうつ)ろなり。夜々賊起こり、人を殺せども追捕(ついぶ)の者なし。今予(よ)の来たるや、探提(たんだい)(題)我が為に此の寇(こう)を懼(おそ)れ、代官伊藤殿をして、里巷(りこう)の岐路に皆(みな)門を作らしめ、夜となれば則ちこれを閉(と)ざす(後略)」と記しています。当時の博多のマチのようすが記述され、九州探題渋川(しぶかわ)義俊(よしとし)は朝鮮使節のために、夜盗の横行を防ぐ目的で、新たに門を作ったことが知られます。この門は、「里巷の岐路に皆門を作らしめ」とあり、辻々(里巷の岐路)のすべてに設けられた木戸の門と考えられます。また、この木戸の門は夜間には閉じられていたこともわかります。

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

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