平成22年11月9日(火)~12月12日(日)
福岡市博物館の建物 |
開催にあたって
福岡市博物館は、今年の10月18日で開館20周年を迎えました。昭和58(1983)年に博物館建設準備室を発
足して以来、多くの方々のご協力のもと、博物館資料の収集を行い、考古・歴史・民俗・美術の各分野にわたる収集資料は、12万件以上にのぼりました。
新しく収集した資料は、2年にわたり整理と調査を行ってリストを作成し、収集年度ごとに『収蔵品目録』を刊行しております。また、博物館の資料収集活動の成果を広く市民の皆様に知っていただくため、毎年、新収蔵品展を開催し、新たに収集した資料をご覧いただける機会を設けております。
第23回目を迎えた今回は、平成19年度にご寄贈、ご寄託いただいた1065件の資料の中から、「ふくおかの歴史とくらし」に関わる注目すべき資料100点あまりを展示いたします。
ここで、新収蔵品展の開催にあたり、貴重な資料をご提供下さいました皆様に厚く御礼を申し上げます。また、この展覧会を通して、市民の皆様には、郷土の歴史と人々のくらしについて一層の関心を寄せていただくとともに、福岡市博物館の資料収集活動にご理解とご協力をいただければ幸いです。
板付遺跡水田面足跡複製品(1) |
般若寺跡出土軒丸瓦(2) |
大友義鑑名字状(18) |
黒漆塗頭形兜(42) |
鷹取秀次像(22) |
1 郷土のあけぼの
昭和55年(1980)、天神の岩田屋百貨店で「邪馬台国への道」という展覧会がありました。そこに出品されていたのが、「足あと」(1)。これは、博多区の板付(いたづけ)遺跡で見つかったもののレプリカです。検出されたのは、縄文時代晩期の水田遺構。私たちの祖先が、日本に稲作が伝わったばかりの頃に田んぼを踏みしめた、その足のうらのあとがくっきり残っていたわけです。会場で多くの人を興奮させたに違いないこのレプリカは、展覧会終了後、主催した新聞社の人の手元にありましたが、30年を経て、博物館資料として活用されることになりました。
さて、考古学では、地下深くから掘り出された遺構や遺物ばかりが大事なのではありません。地表から採集されたものも様々な情報をもたらしてくれます。2~17は、大正時代はじめから昭和30年代にかけて、北部九州の考古学や古代史研究をリードしていた大学教授や郷土史家により集められた古代の瓦です。一部は、考古学の研究誌『考古学雑誌』に掲載され、大宰府(だざいふ)や鴻臚館(こうろかん)を擁する北部九州における古代瓦の研究が盛り上がるきっかけを作りました。
2 戦国~江戸時代の筑前
博多区の吉塚(よしづか)。この地名は、戦国時代、九州北上をねらう島津(しまづ)氏の軍勢と戦って討ち死にした星野吉実・吉兼という武士の兄弟の首塚があったことに由来しています。18~21は、その星野氏の庶流・國武氏に伝来した文書です。戦国時代に博多をおさめていた大友(おおども)氏が、主従の絆を強めるために星野氏に与えた名字状などです。
いっぽう、中央区にはかつて養巴町(ようはまち)という町名がありました。この町名は、福岡藩医・鷹取養巴の屋敷があったことに由来します。22に描かれた人物はそのご先祖。戦国時代の鷹取家の当主・鷹取秀次です。秀次は、備前(びぜん)岡山の宇喜多秀家(うきたひでいえ)に仕え、関ヶ原(せきがはら)の合戦(かっせん)後は黒田長政(くろだながまさ)から仕官の誘いを受けました。しかし、それを断ったため、代わりに息子2人が医者として黒田家に仕えることになったのです。
関ヶ原の合戦時に黒田長政とともに活躍した黒田24騎。その1人、菅和泉正利ゆかりの資料も今回展示されます。注目されるのが虎の下顎骨(30)と爪(31)。菅正利は、文禄(ぶんろく)の役(えき)の際、彼の地で虎退治をしたと伝わります。爪は、肌身離さず携えることが出来るよう根付(ねつけ)に加工されています。
さて、当館の寄贈資料の大きな核のひとつに位置づけられるのが、旧福岡藩士に関係する資料です。清水家に伝来した陣笠(じんがさ)(39)は、武士が、外出や火災の消防のときに被るものですが、兜(かぶと)の代用品にもなりました。慶応3年(1867)の銘があり、戊辰(ぼしん)戦争との関係がうかがわれます。小呂島(おろのしま)の定番も務めた藤田家に伝わった兜(42)は、中央に鎬(しのぎ)が立ち、頭頂部に天辺の座を設けているのが特徴的です。
福岡城下において武士たちが持つ刀剣を打っていた刀工には、黒田長政が近江から招いた筑前下坂派という派があります。43の脇差は、下坂派のメインストリーム・越前下坂派の継廣の作で、筑前下坂派の作刀を考えるうえでも重要です。
また、越中(えっちゅう)宇多派の刀工・国宗作の脇差(44)、日向(ひゅうが)国(現在の宮崎県)に生まれ大坂で活躍した刀工・国貞作の刀(45)など、さまざまな刀工の刀剣が展示されます。
江戸時代の福岡を考えるうえで、大変興味深いのが、代々、庄屋役をつとめた小金丸家に伝わった古文書群です。なかには、村ごとに田畠や屋敷地の所在や面積、石高(こくだか)、年貢の負担者などを記した台帳(51)があります。福岡藩の農村が、どのように運営されていたのかを詳しく伝える大変貴重な史料です。
ところで、江戸時代の日本は、世界史上から見ても際だって出版文化が発達していました。福岡城下の人びとも、印刷された本を入手し、古典に親しんで教養をつみ、また、多様な先進的な知識を得ていました。福岡藩医をつとめた塚本家に伝わった版本類には、オランダ語の辞書(55)が含まれ、長崎経由で西洋医学を学んだ外科医としての活動をうかがわせます。
江戸時代の美術辞典ともいうべきは、『新撰和漢書画一覧』(60)。名の知られた絵師や能書家(のうしょか)の略歴をたいへんコンパクトに収録したものです。能の謡本(うたいぼん)(62・63)は、よく知られた謡曲(ようきょく)100番を5番ずつ収録しています。このような版本の謡本を通して、多くの人が能に親しんでいました。