平成22年11月9日(火)~12月12日(日)
3 福岡・博多の近現代
明治5年(1873)、学制が公布され、学校制度が定められました。生徒たちが用いる教科書は、明治16年に認可制となり、同19年に検定制度が設けられました。さらに、小学校教科書の採用をめぐる贈収賄事件をきっかけに明治36年、国定教科書制になりました。昭和20年(1945)まで40年以上つづいた国定教科書時代の教科書(64・65)からは、当時の政府が国民に期待している人物像がうかがえます。
明治時代の商業を考えるうえで興味深いのが「引札(ひきふだ)」(66~69)です。引札とは、今のチラシやビラと同じく、お店や商品の宣伝、開店や売り出しの告知のために配られる印刷物です。いずれも博多の商家が発行したもので、縁起をかついだ図柄が目を引きます。
武徳殿の鴟尾(72) |
お守り袋(81) |
棟上飾り(89) |
さて、東区の東公園は、今年の秋に話題になった映画のロケ地にもなりました。東公園のランドマークともいうべき亀山上皇像は、明治37年(1904)の完成ですが、そこに携わった石工に広田徳平という人物がいます。福岡出身の総理大臣・広田弘毅(ひろたこうき)の父です。徳平氏は、かなりの教養人で人に頼まれて揮毫(きごう)することもあったらしく、友人宅に書額(70)が伝来しました。さかのぼって明治20年代、東公園では、競馬が市民の娯楽としてたいそう盛んでしたが、この競馬関係書類を伝えていた市内の家にあった書(71)も展示します。
昭和3年(1928)、東公園に武徳殿(ぶとくでん)という立派な建物が建てられます。武道場として市民に親しまれ、現在の金鷲旗(きんしゅうき)・玉竜旗(ぎょくりゅうき)高校柔剣道大会にあたる中等学校武道大会の会場ともなりました。その屋根には、銅製の鴟尾(しび)(72)がしつらえられていました。武徳殿の建物は、昭和56年の福岡県庁移転のために取り壊されますが、鴟尾のみ市内のある会社の倉庫に保管されていました。高さ160センチを超えるその姿に、かつての威容がしのばれます。
第2次世界大戦下の市民生活を知る資料もまた、当館の寄贈資料のひとつの核と位置づけられています。今回は、絵はがきや雑誌、兵隊の慰問のための小物や、代用品を展示します。絵はがき(73~78)は、現在の中国東北部である旧「満州」において集められたもので、日本以前に中国東北部に鉄道敷設をしていたロシアの建築家が設計したハルピン駅の様子などが見られます。雑誌『写真週報』(79)は、昭和13年から、内閣情報部により発行されたグラフ誌で、前線や占領地の様子や「銃後」のくらしに関わるさまざまな情報を、人目を引きつける写真を満載した凝ったページレイアウトで伝えていました。
戦地に出征する兵員には、「武運長久」を祈って、さまざまなお守りが手渡されました。1000人針をほどこした肌着(
80)は銃弾が当たらないと言われ、お守り袋(81)には、「死線(しせん)(=4銭)を超える」という意味で5銭硬貨がおさめられていました。
金属や食料をはじめとする物資の欠乏は、各種の代用品を生み出しました。米を節約し、ぜいたくをいましめるために、瀬戸物でつくった鏡餅(82)まであらわれました。
昭和20年8月、戦争は終わりますが、福岡市の中心部は、6月19日に大空襲をうけ、一面の焼け野原でした。87は、油絵で、昭和22年8月に制作。ようやく復興のきざしを見せる福博の町の岩田屋デパートの上から見渡した光景を描いたものです。
戦後の高度経済成長期を思い出させるのが、電子式卓上計算機(84・85)です。昭和40年代に発売された型式で、価格が下がり始め、中小企業でも電卓が導入されはじめた頃のものです。
4 人びとのくらし
現代の生活では、あまり見られなくなった道具類も、博物館の資料では大きな位置を占めています。
「オキョーカゴ」と呼ばれる駕籠(かご)(86)は、早良(さわら)区四箇(しか)でつかわれていたもので、葬儀や法事のさいに、お寺のお坊さんを乗せて運んだものです。また、馬の背に載せ堆肥を畑に撒く道具(87)や堆肥を汲むための柄杓(88)などが、早良平野の農家のくらしを伝えてくれます。
私たちにとって家を持つことは、人生のなかでも大きな出来事の1つです。さまざまな思いが込められた家の建築工程の節目には、大工職の棟梁(とうりょう)によって家の安泰を祈る儀礼が行われます。その最大のお祝いが棟上(むねあ)げ(上棟式)であり、棟上飾り(89)は、この時に使用されたものです。家の中には、神棚(90)だけでなく、かまどの神様である荒神(こうじん)様の棚なども設えられ、これらは家を守る存在として大切に祀られました。荒神様には豊作や豊漁を願ってススミテと呼ばれる藁の注連(しめ)(92)が飾られました。
生活の道具に目を向けてみると、電化製品やプラスチック製品が普及する以前の、さまざまな生活上の工夫を伝えてくれます。94は、塩を保存するための壺です。壺といってもフタは無く、頭が丸くなっています。底にある小さな穴は、にがりが溜まらないようにするために開けてあります。
家では様々な人生儀礼も行われます。宮参り着物(95)や雛飾り(96)は子どもの祝いに欠かせません。特に、雛飾りは、昭和30年代頃の集合住宅の発展とともに団地サイズに変化しており、家の造りの変化と習慣との関わりを感じさせます。
97の火鉢は、現在の九州大学医学部(当時の福岡医科大学)の草創期を支え、来日したアインシュタインの診察もした医学者が自宅の机の横において使用しました。縦長の形は椅子式の生活にあわせています。
壁帳地見本(98)は、博多織の見本裂(みほんぎれ)です。どこかで目にされたことはありませんか?なんとこの生地は、国会議事堂の委員長室の壁に貼られていたものです。博多織が、様々な建物の屋内空間を彩ることに使われていたことが分かります。