平成2年10月18日(木)~平成3年3月31日(日)
長い歴史を持つ福岡には多くの名刹が存在しております。主に郷土の宗教的文化財を紹介するこの展示室においては、今回は福岡の古刹の1つ、東光院の仏像を出陳することにしました。
薬王密寺東光院
東光院は今からおよそ1,200年前の大同元年(806)に、最澄(さいちょう)(伝教大師)によって開かれたといわれています。場所は市内の博多区吉塚3丁目、その境内(けいだい)も現在はきれいに整備されて公園になっています。
東光院の宗旨は、最初は天台宗だったと思われますが、鎌倉時代に一時禅宗になり承天寺(じょうてんじ)(博多区博多駅前1丁目)の末寺になりました。室町時代後半は戦乱のうちにも信仰が盛んで、当時は「堅粕薬師(かたかすやくし)」といわれ周防(すおう)(山口県)の武将大内政弘が塩断ちの精進をして参詣したり、安土桃山時代には遠く織田家の浪人小神野勝悦が眼病平癒(へいゆ)祈願のために訪れるなど、全国的に信仰がひろがっていました。江戸時代初期の火災からの復興は藩主黒田忠之(ただゆき)によって、僧栄仙が招かれておこなわれ、その時に真言宗に改宗されました。
明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のおりには円福寺からもう1組の薬師如来坐像と十二神将立像が移されてきて、本堂には薬師如来と十二神将が2組、これに日光・月光菩薩、阿弥陀如来、不動明王などが一同に会する壮観な光景でした。しかし藩庁まるがかえの経営基盤だったために、維新後は次第に衰退してゆき、最後の住職清藤泰順(きよとうたいじゅん)尼はこれらの由緒ある多くの仏像を当寺で保存していくことに限界を感じられ仏像等の保存を福岡市に委ねられて昭和56年(1981)に宗教法人総本山薬王密寺東光院は解散しました。
薬師如来立像
東光院の本尊。
薬師如来は正しくは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といい、東方の浄瑠璃世界に住んでおられます。東光院という名前も、東方から放たれる瑠璃光に因んでいるのでしょう。
薬師如来は左手に薬壺を持っているように、病気がなおりますようにとお願いする仏さまで、わが国では奈良時代ころから広く信仰されてきました。しかし、本来は薬師如来は心の病(煩悩(ぼんのう))を取り去ろうとしているのですが、『薬師如来本願経』に説かれている薬師如来の12の大願のうち、「どんな薬や医者でも見放した病気も、自分の名前を聞いたら治るようにしよう」と誓っていることが強調されたために、身体の病気をなおして下さる仏さまとして信仰されるようになったようです。
東光院の木造薬師如来立像は、寺伝によりますと最澄(伝教大師)が延暦22年(803)に渡唐する際に航海中の息災離苦を祈って大宰府の竃門(かまど)山寺でつくったとか、大同元年(806)に最澄が唐から帰朝した時に博多に上陸して、東光院を開基した折りに彫刻した像であるとかいわれています。しかし、お顔をよくみると、輪郭は丸く、頬がふっくらとしていて、この仏様を拝む人はこの円満なお顔をみるたびに安心感をおぼえるようにつくられています。このような面相は平安時代後期(藤原時代)の特徴で、この像の製作時期を示しています。このほかにも彫りの浅くて流麗な衣紋線、ボリューム感あふれる体躯も平安時代後期の特徴です。
構造はヒノキを使った寄木造(よせぎつくり)。からだのうしろで縦に割って前後に離し、それから像の干割れを防ぐために内側を刳りぬいています。なお、両手首先と両足首先、薬壺、それに光背と台座は、大正年間(1912~26)に修理がおこなわれたときに補われたものです。