平成3年3月5日(火)~3月31日(日)
野村望東尼像 |
「野村望東尼(のむらぼうとうに)と幕末の福岡」について
野村望東尼は、幕末の福岡に生まれました。その当時、福岡では儒学、国学、歌道、書道に多くの人々が活躍していました。望東尼もその中で、歌道で名を馳せた大隈言道(おおくまことみち)の門下となり、歌人として活躍しました。望東尼の生きた幕末は「鎖国」体制が崩れ、尊王攘夷運動が活発化した時代でした。望東尼も勤王運動を陰で支えた1人で、自分の隠居所である平尾山荘を平野国臣(ひらのくにおみ)、中村円太(なかむらえんた)等、倒幕派の秘密の集会所として提供したり、九州に来た高杉晋作を山荘にかくまったりしました。福岡藩は朝廷も幕府も同様に盛りたてていこうとする立場でしたので、望東尼は藩の弾圧により姫島(糸島郡)ヘ流罪となりました。しかし、翌年、高杉普作の手配で姫島から救出され、長州(山口県)に行き、筑前に戻ることなくその地で没しました。この展示では野村望東尼と幕末の福岡について(1)家庭の中の望東尼、(2)望東尼と勤王運動、(3)晩年の望東尼の3コーナーに分けて紹介します。
年表
1806年 | 望東尼、生れる(名はもと)。 |
1829年 | 野村貞能(のむらさだよし)(前名貞貫(さだつち))に嫁す。 |
1832年 | 望東尼、大隈言道に入門。 |
1840年 | 長孫貞和(さだかず)生る。 |
1845年 | 夫妻、平尾(ひらお)の山荘に隠居。 |
1851年 | 長男貞則(さだのり)自害す。 |
1853年 | 米使ぺリー、浦賀に来航。 |
1859年 | 貞貫死す。安政の大獄。 |
1861年 | 望東尼上京す。 |
1863年 | 平野国臣、生野で挙兵。 |
1864年 | 第一次長州戦争。 |
1865年 | 三条実美(さんじょうさねとみ)等五卿、太宰府(だざいふ)着。望東尼、姫島流罪。 |
1866年 | 望東尼、姫島より脱出。 |
1867年 | 望東尼、長州にて死す。 |
作品解説
向陵集 |
向陵集(こうりょうしゅう)
装丁・題箋とも望東尼の自作・自書。野村夫妻は、平尾(ひらお)村に山荘をつくり、ここに隠居した。『向陵集』は望東尼の山荘時代の和歌を収めている。
押絵細工「宮女秋庭観月模様」 |
押絵細工(おしえざいく)「宮女秋庭観月模様」
江戸時代末、福岡・博多では武家・町家を問わず、婦女子の手芸として、種々の美しい押絵の細工物が作られた。望東尼も様々な細工を残している。
望東尼姫島書簡集一 |
望東尼姫島書簡集(ぼうとうにひめしましょかんしゅう)一
これは、姫島の獄中図である。望東尼は、福岡藩主黒田長溥(くろだながひろ)の勤王派弾圧で処罰され、姫島に流された。
長門たより |
長門(ながと)たより
姫島に流された望東尼は、慶応2(1866)年9月、長州の奇兵隊士(きへいたいし)である筑前(ちくぜん)出身の志士に救出され、長州に渡る。そして、望東尼は筑前に戻ることなく、その地で没した。