平成3年6月4日(火)~7月14日(日)
博多祇園山笠巡行図屏風(部分) 石橋源一郎資料 |
博多祗園山笠(ぎおんやまかさ)は、室町時代以前にその起源があるといわれ、古代・中世から港湾都市として栄えた博多にふさわしい歴史を持っています。
近世に入り、博多は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の町割(まちわり)や1,600年の黒田長政(くろだながまさ)の筑前入国によって都市の外形や町制が整えられます。そして祗園山笠も、15mもの舁(か)き山が町々をめぐり、歴代福岡藩主も櫛田(くしだ)神社で見物するなど、筑前一国を代表する祭礼となったのです。
さて山笠は、博多の町々のまとまりである「流(ながれ)」ごとに1本が仕立てられました。流の中では当番となった町が、山笠の飾り人形の掲題(テーマ)を決め、その下絵を人形師に描いてもらいました。そして藩の許可を得ると、山笠の本図を絵師に頼み、それを設計図としました。この本図は2組作られ、1組は藩主に献上されたのです。
本展示の山笠絵図は、福岡藩主黒田氏に伝えられたものの他に、博多の町に伝えられ屏風に仕立てられたものなどですが、その鮮かな色彩は、かつての時代の勇壮な山笠の姿をしのばせてくれるのです。
三苫(みとま)氏について
三苫氏は代々惣吉を名乗り、博多の人々から「絵惣」とよばれた、山笠図専門の町絵師です。
三苫氏が初めて山笠図を描いたのは宝暦2年(1752)のことで、この初代惣吉(そうきち)(1727~1803)は主清と号します。2代惣吉(1763~1824)のあと、本格的に絵師として活躍したのが3代惣吉(1803~1879)で英之と号します。作風は確かな構図と力強い描線が特徴です。4代惣吉(1833~1887)も主清と号しますが、その作風は色彩が鮮かで、全体として華麗なものです。
「博多祗園山笠巡行図屏風」について
この屏風は延宝2年(1674)に西町流の蔵本番が立てた「三浦北条軍法記」の舁き山を描いたもの。山笠図屏風としては現存する最古のものである。しかも山笠を組みたてる様子から、追山(おいやま)の日に博多市中をめぐっている様子などが詳しく描かれた、他に例のないものである。
「博多祗園山笠図屏風」 三苫英之筆
追山(おいやま)は旧暦6月15日におこなわれた。明治時代から、飾り山と、櫛田神社入りをし市中をめぐる現在の低い舁(か)き山に別かれた。