平成3年7月16日(火)~9月8日(日)
はじめに
天正15(1587)年の豊臣秀吉の九州平定により、九州の戦国時代は終わりを告げました。こののち、黒田氏の入国まで筑前国は小早川氏によって治められました。隆景(たかかげ)・秀秋(ひであき)と続くその治政はわずか13年間ではありましたが、小早川氏は寺社の建造物など福岡市内外に多くの足跡(そくせき)を残しています。そこで今回は、中世から近世への移行期(いこうき)にあたる小早川氏の時代を取り上げ、その治政のありかたを最近の名島城(なじまじょう)跡の発掘成果とともに紹介いたします。
小早川隆景画像(広島・米山寺蔵) |
小早川秀秋画像(京都・高台寺蔵) |
小早川氏関係系図 |
1、小早川氏の筑前入国
秀吉の全国統一事業の過程で行われていた九州出兵は、天正15(1587)年、島津義久(しまづよしひさ)の降伏によって終わりを告げました。秀吉は薩摩(さつま)からの帰国途中、博多に立ち寄り、戦後処理として九州地方の「国分(くにわ)け」(領土確定)を実施します。こうして隆景に筑前(ちくぜん)1国・筑後(ちくご)2郡および肥前(ひぜん)1郡半が与えられ、小早川氏による筑前国の支配が始まりました。
2、隆景(たかかげ)の治政
筑前国を治めることになった隆景は初め立花城(たちばなじょう)に入りましたが、山城(やまじろ)で不便であったため、博多湾に面した名島(なじま)の地に新しく城を築き、以後そこを拠点(きょてん)としました。隆景自身は常に在国することは無かったものの、国内の治政は彼の重臣らによって行なわれました。隆景の治政の中で特に有名なのは寺社の造営・修造で、福岡県内には隆景によって建てられた多くの建造物があります。
3、秀秋(ひであき)の治政
小早川秀秋は初め秀俊(ひでとし)と称し、もともと秀吉の養子でしたが、文禄3(1594)年に隆景の養子となり、翌年には筑前国をはじめとする九州の所領を隆景から引き継ぎました。彼は、秀吉より山口玄蕃頭宗永(げんばのかみむねなが)を後見役として付けられ、彼の治政は秀吉の強い影響のもとで行なわれました。その後一時期、越前(えちぜん)国(福井県)に移されますが、再び戻され、関ケ原の戦いまで筑前国を治めました。「秀秋」は慶長2(1597)年に隆景が没して以降の名乗りです。
4、名島城(なじまじょう)
小早川氏が筑前国を治めるための拠点とした名島城については平成2(1990)年夏に発掘調査が行なわれました。その結果、本丸天守曲輪(くるわ)東側の石垣とその側(そば)の米蔵もしくは宝蔵の倉庫跡が発見されました。そして、これらの遺構(いこう)や出土遺物(いぶつ)から、黒田氏によって福岡城が築かれた際に名島城の石垣や瓦(かわら)などが再利用されたことがあらためて確認されました。