平成3年7月16日(火)~9月16日(月)
木造大日如来坐像 |
下駄 |
土鍋 |
石見守(遠田兼常)下知状 |
九州における中世史料は、全国的にみてもかなり残り具合は良い方ですが、内容的にみれば、戦国大名をはじめとする領主関係のものや寺社関係のものがほとんどで、村落や農民に関係のあるものは皆無に近い状態です。 その中で、室見川流域、旧早良郡の地域は、農民や村落に関する古文書が残されており、又近年の発掘調査の成果により、農民の生活のようすも明らかになってまいりました。
今回は、これら発掘資料、古文書、及び美術資料を通して、この地域の農民の生活のようす、結びつき(共同体)、及び信仰の内容について紹介しております。
農民の共同体
室見川の流域では、中世に3つの農民の共同体があったことが知られています。1つは室見川の下流域、現在の拾六町の地域です。この辺りは阿蘇社領の山門庄があった所ですが、15世紀、十六丁(現拾六町)の農民は、「十六丁御百性同心(じゅうろくちょうおんひゃくしょうどうしん)」と呼ばれる共同組織をつくり、自らの生活と経営を守るため政治的行動をとっていました。
又中流域、現在の四箇(しか)には、新原(にいはら)、警固(けご)、榊、曽賀部(そかべ)の四ケ村からなる「四ケ村同心」と呼ばれる共同体がありました。この四ケ村は水利等をめぐり深い結びつきがありましたが、更に室見川対岸にある龍山の共同利用をめぐり、西山(にしやま)を含めた五ケ村で「五ケ村同心」と呼ばれる共同体をつくっておりました。
更に上流域、現在の内野以南の地域は中世では「脇山院(わきやまいん)」或いは「横山郷(よこやまごう)」と呼ばれています。平安時代末期以来、背振山東門寺(せぶりさんとうもんじ)の所領で63町の田地と25の名(みょう)からなっています。この地方では小笠木(おかさぎ)、脇山(わきやま)以下村毎に農民の共同体がありますが、更に横山郷全体で「寄合中」と呼ばれる共同体がありました。構成員は各村の代表者(小領主)からなり、「六十三丁御老中(ろくじゅうさんちょうごろうじゅう)」と呼ばれていました。
早良郡の総社「飯盛神社」
室見川の中流域西岸に、きれいな山容を誇る飯盛山は、古くからの信仰の山です。山頂からは、永久2年(1114)瓦状のものに経典を書いた瓦経(かわらきょう)が出土しており、山麓には飯盛神社があります。その南側には、かつての神宮寺の名残りをとどめる文殊堂があり、南北朝時代に造られた木造の文殊菩薩騎獅像が安置されています。
飯盛神社の信仰圏は、最も盛んなりし頃は、早良郡全体にまで及んでおり、早良郡の総社であったと考えられます。現在も飯盛神社では、粥占い等の中世の名残りを伝える神事が行われています。