平成4年2月18日(火)~5月17日(日)
壇雛(昭和13年) |
はじめに
節供(せっく)(節句)は中国において季節の変わり目、即ち節目に当る日を暦(こよみ)の上で選んだもので、これが日本にも伝えられました。江戸時代、幕府は五節供を定め、人日(じんじつ=正月7日)、上巳(じょうし=3月3日)、端午(たんご=5月5日)、七夕(たなばた=7月7日)、重陽(ちょうよう=9月9日)の各節供を特に重んじました。一般には、これらの節供を、七草の節供、桃の節供、菖蒲(しょうぶ)の節供、七夕(たなばた)祭、菊の節供などと呼んでいます。
今回、節供に飾られる人形を展示することにしました。今も上巳(じょうし)(雛祭り)や端午の節供などには華やかな人形を飾り、わが国の代表的な伝統文化の1つとなっています。節供に人形が飾られるようになるのは、いつ頃からなのでしょうか。また、どのような人形が飾られたのでしょうか。私達が毎年行っている節供の行事について、その起源と変遷(へんせん)に触れながら、九州各地の節供人形と飾り物を見ることにします。
薩摩糸雛(鹿児島県) |
人形(ひとがた)の由来
人形は元来、人にとりついたケガレを祓うための呪具で、「阿末加津(あまがつ)」「這子(ほうこ)」「比々奈(ひびな)」などの種類がありました。阿末加津(あまがつ)は白絹の布のなかに綿を入れてぬいぐるみの状態にしたもので、平安時代には皇太子の寝室において、人形で身体を撫(な)でケガレを祓い清めるために用いました。寝室には阿末加津(あまがつ)と共に、比々奈(雛(ひな))も用いましたが、これは人形としてはより精巧なもので、男女の区別もあり玩具としての要素もあったようです。
『源氏物語』の「末摘花(すえつむはな)」には、紙に男女の絵を描く光源氏と紫上が雛あそびをする様子が記されています。しかし、これは特定の日が定められているものではなく、日常の遊びだったのです。
古くから人形は呪術(じゅじゅつ)的な要素と玩具としての性格が混在していたのです。
流し雛(鳥取県) |
流(なが)し雛(びな)
流し雛は鳥取県八頭(やず)郡用瀬(もちがせ)町では今も盛んに行われますが、これが雛祭(ひなまつり)の原形と言えます。『源氏物語』の「須磨(すま)」に3月1日が巳の日(上巳)に当るので、光源氏は須磨の浜(兵庫県)に人形を作って舟に浮かべ、海に流します。これはケガレを人形に移して海に流すために行うのです。人形は永く残らないように土や紙などで作ります。鳥取の流し雛も川に流すものは頭部が土でできており、水に濡(ぬ)れると溶けるようになっています。また、薩摩の糸雛も細い竹と紙でできており、流し雛としては用いませんが古い様式を残しているのです。
今でも雛人形を長く飾っておくと、「娘が嫁に行けなくなるから」と言って早く片付ける習慣があるのは、人形を永く残してはならないという思想が根底にあるからなのです。
次郎左衛門雛 |
雛祭(ひなまつ)り
雛祭りが3月3日に今のような形で人形を飾るようになったのは、江戸時代になってからのことです。それまでは上巳(じょうし)の節供ですから、3日ではなく3月初めの巳の日に人形を川や海に流していたのです。近世初期には雛人形は立雛が多く、後に、寛永雛(かんえいびな)・享保雛(きょうほびな)とよばれる坐り雛が作られるようになります。そのなかでも、幕府御用達(ばくふごようたし)の雛屋次郎左衛門(ひなやじろうざえもん)の作る次郎左衛門雛は丸顔で引目鈎鼻(ひきめかぎはな)、十二単(ひとえ)姿の有職故実(ゆうそくこじつ)に沿ったものでした。雛の飾り方は、男雛を向かって右にすることが多く、現在のように左に据えるようになるのは、昭和天皇の御大典(ごたいてん)の際(昭和3年)、両陛下の並び方に雛人形も習うよう提唱されたためです。