平成4年3月31日(火)~5月31日(日)
三奈木黒田家甲冑 |
作品解説
大小字頭立置手拭形兜 紺糸威胴丸具足 小具足付 (三奈木黒田家資料)/1領
置手拭形兜は中央ではぎあわせた幅の広い上板の形状が、あたかも手拭を頭上に畳み置いた様子に似たところから名づけられた。黒田一成が、関ケ原の合戦(1600年)に着用した。
一成はもともと加藤姓で、父重徳の善行により黒田孝高(よしたか)に引きとられ、黒田姓を与えられた。慶長5(1600)年長政が筑前藩主に任ぜられるや、下座(げざ)郡に16,000石を与えられ三奈木(みなぎ)(甘木市)に別邸を設けた。藩政の確立とともに次第に頭角を表わして筆頭家老となる。
秋月吉井家甲冑 |
鍬前立兜 紺糸威胴丸具足 小具足付 (秋月吉井家資料)/1領
前立は日用品の1つである鍬で珍らしく、福岡藩の支藩である秋月藩の吉井諸右衛門所用である。
秋月吉井家は、もともと筑前怡土郡吉井村の出身である。寛永年間に秋月藩御側筒役に召抱えられている。近世初期の甲冑をはじめ陣旗、床机、采配などがそろっているのが貴重である。
2代藩主黒田忠之甲冑(黒田資料) |
鯰尾形(なまずおなり)兜・鶉巻(うずらまき)紺糸威胴丸具足 小具足(こぐそく)付 (黒田資料)
2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)が着用したもの。兜の外鉢は紙に漆をぬった張懸(はりかけ)で、両脇にひれをつけ鯰の尾を現した変り兜。また胴丸は材料をくすぶらせて白と茶の模様をつけた鶉巻といわれるもの。
歴代福岡藩主について
福岡藩初代藩主黒田長政(くろだながまさ)は関ケ原の合戦の功で52万石の大名となるなど歴戦(れきせん)の武将でした。2代忠之(ただゆき)も島原の乱などに軍勢を派遣します。17世紀末の3代光之(みつゆき)の時には藩政も確立し、好学の4代綱政(つなまさ)や財政通の6代継高(つぐたか)が出て藩政を行ないます。18世紀末から欧米列強が日本に接近を始めると、蘭学(らんがく)を好んだ10代斉清(なりきよ)や、西洋の技術・軍備(ぐんび)の導入(どうにゅう)を計った11代斉溥(なりひろ)が出ますが、藩としての活躍ができないうちに、明治を迎えます。
田中巌(源工)肖像(具足師田中家資料) |
福岡藩御抱具足師田中家について
田中家は、甲冑の仕立(したて)職で有名な岩井(いわい)氏の一族で、慶長9(1604)年、黒田長政(くろだながまさ)に招かれ御抱具足師(おかかえぐそくし)となり城下町福岡に住みました。後の明和6(1769)年には6代藩主黒田継高(はんしゅくろだつぐたか)から田中姓をもらいました。
田中家の仕事は甲冑の新調(しんちょう)と修理(しゅうり)です。特に歴代(れきだい)藩主分の修理や新調は京都から仕入れた部品に地元(ぢもと)の博多織などの材料をあわせておこないます。また藩士の甲冑や御番具足(おばんぐそく)といわれる藩の借具足(かしぐそく)の新調も行ないました。