平成4年10月27日(火)~11月23日(月)
勧進相撲(かんじんずもう)と回向院(えこういん) | |||
勧進相撲は神社や寺院、橋などを建築・修築するための寄付金集め(勧進)を目的として催されるもので、室町時代中頃から行われていた。 江戸時代中期以降は勧進の目的から離れて営利(えいり)目的となったが、依然(いぜん)として勧進という名称を使っていた。江戸両国の回向院(えこういん)では、18世紀後半ごろからしばしば勧進相撲が催され、明治42(1909)年には境内に相撲常設館として国技館が建てられた。 | |||
1 | 相撲番付 | 慶応2年3月 | 木版 |
相撲番付(すもうばんづけ) | |||
相撲だけでなく、歌舞伎などの興行(こうぎょう)の出し物や参加者を列記した宣伝用の印刷物をいう。もともと「順番付(じゅんばんづけ)」の意味で、そこから配役や階級を意味するようになった。相撲番付には縦型のものと横型のものがある。相撲競技が京都・大阪から江戸に伝えられた折、従来2枚組であった番付の一部を江戸では省略して、縦型1枚とした。また相撲番付にならって有名人や名物、長寿者などを列記した見立(みたて)番付も作られた。 | |||
2 | 相撲番付 | 嘉永7年11月 | 木版 |
3 | 相撲番付 | 安政2年6月 | 木版 |
4 | 相撲番付 | 安政3年4月 | 木版 |
5 | 相撲番付 | 安政3年11月 | 木版 |
6 | 日本山川見立番付 | 明治時代 | 木版 |
7 | 見立番付 | 明治28年6月20日 | 木版 |
8 | 太平記英勇伝と太平記三十六番相撲 | 江戸時代末期 | 木版色摺 |
横綱(よこづな) | |||
力士の番付上の最高位。もともと相撲が地鎮祭(ぢちんさい)などの地固(ぢかた)めの儀式であった頃、しこを踏む力士が縛(し)め縄(なわ)を身につけたことに由来する。はじめは階級ではなく、大関やその他の上位の力士のうち、「横綱土俵入(よこづなどひょういり)」の式を行う者に横綱免許を与えるというものだった。現在のように番付に「横綱」と記されるようになったのは明治23(1890)年のことであった。 | |||
9 | 相撲番付 | 安政4年正月 | 木版 |
10 | 相撲番付 | 文久元年5月 | 木版 |
11 | 相撲番付 | 文久元年10月 | 木版 |
12 | 相撲番付 | 元治2年2月 | 木版 |
13 | 相撲番付 | 慶応3年3月 | 木版 |
14 | 相撲番付 | 明治23年5月 | 木版 |
15 | 相撲番付 | 明治24年4月 | 木版 |
外国人(がいこくじん)がみた相撲(すもう) | |||
幕末・維新期に来日した外国人は、日本の風景や習俗を絵や写真、文章で記録した。その中には当時の相撲の絵や写真も掲載されている。相撲に似た格闘技(かくとうぎ)は古くから世界各地で行われていたが、19世紀後半に日本を訪れた外国人の目には、力士の土俵入りや立ち合い、化粧廻(けしょうまわ)しなどが大変珍しく映(うつ)ったにちがいない。 | |||
16 | ペリー提督日本遠征記 | 江戸時代 | 印刷(一部色刷) 書冊 |
17 | 大坂の相撲(イラストレイテッド・ロンドン・ニュース) | 1867年 | 印刷 |
18 | 日本 | 1897年 | 印刷 書冊 |
19 | 日本風俗写真帳 | 明治時代 | 白黒写真に手彩色 |
梅ケ谷藤太郎(うめがたにとうたろう) | |||
明治初期の横綱(明治17<1884>年免許)。福岡県上座(じょうざ)郡志波(しわ)村字梅ケ谷(現在の朝倉郡杷木(はき)町志波)生まれ。文久3(1863)年大阪相撲に入門、大関にまで昇進した後、東京の玉垣額之助に入門した。明治維新後衰退していた東京相撲を盛りたて、「相撲道中興(ちゅうこう)の祖」と言われる。引退後は年寄雷(いかづち)権太夫として、相撲常設館(国技館(こくぎかん))を建設するなど、相撲振興に力を尽くした。 | |||
20 | 相撲番付 | 慶応4年9月 | 木版 |
21 | 相撲番付 | 明治4年 | 木版 |
22 | 相撲番付 | 明治6年11月 | 木版 |
23 | 相撲番付 | 明治8年7月 | 木版 |
24 | 東京相撲秋月之賊徒ヲ捕縛スル図 | 明治9年12月29日 | 木版色摺 |
25 | 勧進大相撲繁盛之図 | 明治15年1月13日 | 木版色摺 |
26 | 梅が谷のポスター | 明治時代 | 石版色刷 |
27 | 銅版画(油久事 松下久吉) | 明治18年 | 銅版 |
大正(たいしょう)・昭和時代(しょうわじだい)の相撲(すもう)ブーム | |||
大正14(1925)年摂政宮(せっしょうのみや)(後の昭和天皇)からの下賜金(かしきん)で優勝賜杯(しはい)が作られたのを契機に、東京と大阪の両相撲協会が合併した(昭和2<1927>年大日本相撲協会設立)。この後、昭和10年代の双葉山(ふたばやま)の活躍、「栃若(とちわか)時代」(昭和30年代前半)、「柏鵬(はくほう)時代」(昭和30年代後半)と、相撲ブームが続いた。人気力士は雑誌などにも登場し、公私にわたり人々の注目を集めるようになった。 | |||
28 | 東京・大阪の番付(『週刊朝日』) | 大正11年5月14日号 | 印刷 書冊 |
29 | 星取表 | 昭和17年春場所 | 色刷 |
30 | 「絵でみる若乃花の二十四時間」(『週刊スポーツマガジン』) | 昭和34年2月28日号 | 印刷(一部色刷) 書冊 |
31 | 「わたしは誰でしょう」(『週刊少年マガジン』) | 昭和34年3月26日号 | 印刷(一部色刷) 書冊 |
32 | 「さっそう若秩父」(『週刊少年サンデー』) | 昭和34年4月5日号 | 印刷(一部色刷) 書冊 |
33 | 相撲番付 | 昭和35年9月2日 | 印刷 |
34 | 相撲番付 | 昭和40年5月1日 | 印刷 |
※期間中一部展示替をします。
※展示にご協力いただいた方々(敬称略)
岡田 一・奥村和郎・奥村 武・ 末信源蔵・中窪菊枝・野間フキ・ 原田ヒデ・安川令子