平成4年12月8日(火)~平成5年2月21日(日)
農業全書・農事図(宮崎安貞) |
遠賀郡豊前堺行相図(福岡藩御用絵師衣笠半太夫筆) |
堪輿旁通儀図説(福岡藩天文方星野実宣の作った月の測定器) |
元禄(げんろく)時代は、徳川綱吉(とくがわつなよし)が5代将軍であった17世紀後半から18世紀初めを指すもので、江戸時代の中でも、美術に見られる華(はな)やかで創造的(そうぞうてき)な都市の文化が生れた時代です。また社会が安定すると、日本の歴史や伝統的(でんとうてき)な文化を見なおす人々が現れ、その中から新しい学問や文芸(ぶんげい)が生れました。経済の面でも産業を発展させる新しい技術が生れました。そして政治の上でも幕府による元禄国絵図(げんろくくにえず)作成など全国的な事業もおこなわれました。
さてこの時代の筑前福岡藩(ちくぜんふくおかはん)は3代藩主黒田光之(くろだみつゆき)(1828~1707)と4代綱政(つなまさ)(1659~1711)が政治をとった時代です。光之は学問好きの藩主として知られ、彼に任えた重臣には立花実山(たちばなじつざん)など深い思想に至った文化人もいました。また儒学者貝原益軒(じゅがくしゃかいばらえきけん)を召抱えたのも彼です。しかし次期藩主が長男綱之(つなゆき)から3男綱政に替わり、立花一門の栄達に批判が出るなど政治的には難しい時代でした。4代綱政は自ら絵を描くなど文化的な藩主でしたが、隠居(いんきょ)した父が実権(じっけん)を握っていたため、父の死後に藩財政などの建直しをすることになります。
ところでこの時代、筑前でも山野や海辺で新田開発が進み産業も発展します。こうした中で宮崎安貞(みやざきやすさだ)が貝原益軒などの協力を得て『農業全書(のうぎょうぜんしょ)』を完成させます。これは中国の『農政全書(のうせいぜんしょ)』から得た知識をもとに、自分の見聞(けんぶん)や実地(じっち)の研究を重ね、日本の風土(ふうど)に根付いた農業技術をまとめたものです。また益軒も自ら筑前を巡って『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』を編纂(へんさん)しましたが、その中で筑前の産業や産物を紹介しています。
一方、幕府が全国の大名に命じた文化事業は福岡藩の学問の面に影響を与えています。歴史の面では大名家がかつて家康、秀忠から与えられた、戦功(せんこう)を示す古文書などの調査が命じられます。福岡藩では、すでに光之の命で黒田家譜(くろだかふ)を編纂(へんさん)していた益軒に、黒田氏の古文書調査を命じ、幕府に提出しています。また全国64ヵ国の国絵図の作成は元禄10(1697)年に命じられます。福岡藩は筑前国を担当し、藩の御用絵師(ごようえし)の衣笠半太夫(きぬがさはんだゆう)をはじめとする絵師たち、星野実宣(ほしのさねのぶ)など藩の天文方(てんもんかた)や測量方(そくりょうかた)の人々が、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、筑後(ちくご)などの国境の地形測量(ちけいそくりょう)や絵図書きに活躍(かつやく)します。また益軒も前々から国境決定の調査をしています。