平成5年1月5日(火)~3月21日(日)
筑前52万石の居城福岡城は国の史蹟(しせき)に指定され、現在では舞鶴(まいづる)公園として多聞櫓(たもんやぐら)や石垣の修復、長屋門や御祈念櫓(ごきねんやぐら)の移築等整備を進め、市民の憩いの場として利用されています。しかし47あったと伝えられる櫓のほとんどは既になく、南側と東側の堀も埋められ、また城中で使った生活道具の多くも散逸してしまいました。一方1951年に初めて行われた福岡城址の発掘調査は、その後も断続的に続けられ、部分的ですが福岡城の細部を窺えるようになりました。特に現在も行われている鴻臚館(こうろかん)跡の調査では多くの江戸時代の資料も出土し、今後の成果が期待されています。
今回、福岡市教育委員会が行った福岡城址の発掘資料をまとめて展示しました。考古学から見た福岡城を御覧下さい。
名島城
1588(天正15)年、豊臣秀吉により筑前を与えられた小早川隆景は、海に突き出た名島の地に居城を築いた。築城の際には、立花宗茂の旧居城立花城の部材を運んだ。海側に本丸、堀を挟んで南に二の丸を築いたが、現在の城祉には住宅が建てこめ、往時の姿は全くない。1991年、二の丸跡で初めて発掘調査が行われ、石垣や建物跡が発見され、瓦や陶磁器が出土した。
福博惣絵図 |
福岡城
関ケ原の戦の結果、1600(慶長5)年筑前を与えられた黒田長政は名島城に入城したが、城下町が狭いため、新たに那珂郡警固村の福崎に翌年から築城を始めた。縄張りは黒田二十四騎の1人野口一成がしきり、朝鮮半島の晋州城を手本にし、築城時に名島城から部材を移築した。面積約25万m2、47の櫓、西の大堀と東に伸びる堀など雄大な城だが、天守台はあるものの天守閣は作られなかったと言われている。城は完成後も石垣などがたびたび修築されている。
月見櫓で出土した瓦 |
57の桐紋がはいっており、名島城からもってきた瓦と考えられる |
月見櫓(つきみやぐら)
本丸天守台下の東側に位置し、福岡市博多区の崇福寺にあった仏殿が月見櫓、花見櫓と言われ、現在解体・調査中で、近年中に城内に移築予定である。櫓跡は1991年に発掘され、櫓の基壇(基礎)は6×7mの規模で、その南側に6×5mの付櫓を設けていた。柱跡はすでになく、出土した瓦の中に五三の桐、五七の桐文がついた瓦があり、羽柴姓を賜った小早川隆景の居城名島城から福岡城へもってきた瓦と考えられる。
御祈念櫓
本丸の東北に位置し、鬼門を守護していた。明治の廃城後は北九州市の大正寺に移築していたが、その後本来の位置に移築・復元した。その移築に先立つ1983年に櫓跡の発掘調査が行われた。調査の結果、礎石の配置などから少くとも1回は建て替えられたことがわかった。出土した遺物は瓦や陶磁器で、いくつかの時期のものが含まれていた。