平成5年1月5日(火)~3月21日(日)
御鷹屋敷出土遺物 |
御鷹屋敷
城内北西側の三の丸に位置する。藩祖黒田如水の隠居所があったと伝えられる。1810年前後製作の博多古図に「高屋敷」1812年に写した城絵図に「御鷹屋舗(敷)」という記載がある。1979年に発掘調査が行われ、南北に伸びる幅3mの溝と、その溝の南側に建物の跡と建物を巡る溝が発見された。出土遺物の多くは瓦と陶磁器で、それらは江戸時代初期~中期のものが多く、建物の詳しい時期や用途はわからなかった。
大音屋敷内にあった池 |
家老大音(おおと)家屋敷
現在発掘調査が進められている鴻臚館跡は、二の丸のすぐ下にあたり、家老大音家の屋敷があったところである。調査では屋敷内の建物の礎石や、掘立柱建物の跡、井戸などが発見され、また屋敷の南側には幅約13mの絵図にない堀状の施設が見つかった。堀は2段掘りで、上の段に石垣がある。明治5年に大音屋敷跡の小池の蓮根を志摩野司が落札したという記録があり、その小池と思われる。
堀石垣
地下鉄の工事に伴って、城内北側の内堀外壁と薬院新川西側の現東急ホテル南側の石垣が発掘された。その結果内堀の幅は約60mで、石積みは野面(のづら)石の乱積みのものが多く、部分的に面取りしたものもあった。石積みの背後に粘土や土に石を混ぜて踏み固め、薬院新川の石垣は特に堅固に造っていた。内堀石垣は修築のため石垣線が3回に渡って変わっており、古文書にある修築の記述を確認できた。
黒田家の家紋がはいった瓦 |
肥前堀
城内から東へ伸びる中堀に続く堀で、肥前鍋島藩の好意により造られたため肥前堀と呼ばれる。堀は共進会会場確保のため1910(明治41)年に埋められた。県庁跡地や市役所建替のための発掘調査で概要がわかった。市役所付近では絵図のとおり石垣はなく、縦75m、深さ46m、2段掘りで、途中の平担面に杭が打たれていた。旧県庁部分には石垣があり、数馬門(かずまもん)の跡と思われる。
城内出土の旧陸軍関係遺物 |
廃城後
1871(明治4)年、廃藩置県により福岡城は廃城となり、1886(明治19)年に陸軍歩兵第24連隊が設立され、城の各施設は解体・移築していった。戦後・城内に競技場や球場、国立病院、裁判所などが建てられていった。一方、1957(昭和32)年には国の史蹟に指定、以後舞鶴公園として整備が始まった。平和台球場をにぎわせたライオンズは去り、今またホークスはドーム球場へと移るが、今後は鴻臚館と福岡城の整備が進められていく。
展示品はすべて福岡市教育委員会及び博物館の所蔵。