平成5年2月23日(火)~4月4日(日)
牡丹図(亀井少きん) |
雪梅図(二川玉篠) |
江戸時代の筑前(ちくぜん)には、儒学(じゅがく)や国学(こくがく)、絵画(かいが)や詩文(しぶん)・和歌(わか)などに多くの有名な学者や文化人が現れました。その中でも、今回の展示では、とくに学者などの家に生れ、幼い時から学問好きの家庭の中で才能(さいのう)を育て、ついには全国的に有名となった女性たちを中心に、その作品を紹介してゆきたいと思います。彼女たちの事蹟(じせき)を知ることで、江戸時代の筑前の学問や文化のあり方、その中で生きた女性の姿をかいまみることができるでしょう。
貝原東軒(かいばらとうけん)(1651~1713)
貝原東軒は名を初(はつ)といい、秋月藩士江崎広道の娘で、寛文8(1668)年、17才で貝原益軒(えきけん)と結婚した。益軒とは年が離れていたが、和歌に巧(たく)みで、箏(そう)や胡琴(こきん)にもすぐれていた。なかでも書道、とくに楷書(かいしょ)にすぐれ、人々に求められて大書を残したり、益軒の著述を巻物に書いたりしている。また益軒と一緒に作った書や、彼の日記などの代筆が残されている。益軒と東軒夫人の墓所は金竜寺(現中央区今川)にある。
亀井少(しょう)きん(1798~1857)
亀井少きんは名を友(とも)と言い、福岡藩の儒学者亀井昭陽(しょうよう)の長女として福岡の唐人町に生れた。幼い頃から祖父南冥(なんめい)や父の教育を受けて育ち、詩や書画にすぐれた才能を示した。19才で父の門弟であった三苫源吾(みとまげんご)(後の亀井雷首(らいしゅ))と結婚し、現在の西区今宿(いまじゅく)に住んで、夫の医業と弟子の教育を助けた。また求めに応じて書や画を描き、特に梅、菊、蘭、竹を得意とした。墓所は亀井一族が葬られている浄満寺(現中央区地行)に雷首と共にある。
原采蘋(はらさいひん)(1798~1859)
原采蘋は名を猷といい、秋月(あきづき)藩士で儒学者原古処(こしょ)の長女。古処は亀井南冥の弟子で、とくに詩文にすぐれ、亀井昭陽(しょうよう)の文章とならび称(しょう)された。のちに秋月藩の藩校稽古館(けいこかん)の教授となった。采蘋は早くから学問にすぐれ、また父や母に従って中国・九州各地を訪れてその文学の才能を広く知られた。30才の時江戸に出て、以後20年間にわたり活躍し、晩年は母とともに故郷に住み、御笠郡山家(みかさぐんやまえ)(現筑紫野市)で私塾を開いた。
二川玉篠(ふたがわぎょくじょう)(1805~1865)
二川玉篠は名を瀧(たき)といい、福岡藩の書道方二川相近(すけちか)(松蔭(しょういん))の2女。相近は亀井南冥(かめいなんめい)が館長であった藩校甘棠館(かんとうかん)に学び、のちに書道に進んで二川流を始めた人で、他に国学の研究や今様の作品にもすぐれていた。彼の今様は福岡藩士の子女の教育にも使われている。玉篠はとくに絵画にすぐれ、彼女が描き、父相近がその内容に題を与える讃(さん)をした絵が多く残されている。
野村望東尼(のむらぼうとうに)(1806~1866)
野村望東尼は名をもとといい、福岡藩士浦野重右衛門の3女で、福岡の御廐後(おうまやうしろ)(現中央区六本松)で育った。24才の時藩士野村貞貫と結婚し、夫婦で歌人大隈言道(おおくまことみち)の門人となるなど和歌の道にはげんだ。40才の時に夫とともに福岡近郊の平尾(ひらお)村の山荘で隠棲(いんせい)生活をはじめ、夫の死後出家して招月望東禅尼と称した。晩年は勤王(きんのう)運動とかかわり、福岡藩の平野国臣(ひらのくにおみ)、中村円太(なかむらえんた)などの志士と交流し、長州の高杉晋作(たかすぎしんさく)もかくまった。