平成5年6月8日(火)~7月18日(日)
今年もまた、山笠の季節になりました。博多の祗園山笠は、疫病(えきびょう)退散を祈る夏の祭りとして中世以来の伝統を持っています。その起源については、さまざまな説があります。承天寺を開いた聖一国師(しょういちこくし)が仁治3年(1242)、博多の津中で施餓鬼棚(せがきだな)をかつぎまわらせ、法水をまいて疫病封じをしたのがその起源であるとか、また、室町時代博多を領していた中国地方の大名大内氏が、京都の祗園祭りを移したというものです。しかし、これらは伝承の域を出ず、いまだ定説はないようです。
今回の展示では、山笠に関する基本的な資料集、中世の様子がわかる史料および江戸時代の山笠絵図を展示します。山笠絵図は、福岡藩主黒田氏に伝えられたものの他に、博多の町に伝えられ屏風に仕立てられたものです。その鮮(あざ)やかな色彩は、かつての時代の華麗な姿をしのばせてくれるでしょう。
展示解説
大内氏奉行人禁制(おおうちしぶぎょうにんきんぜい)
康正2年(1456)、守護大内氏は、筥崎宮の神木である筥崎松原の松を勝手に伐(き)るのをきびしく禁止しました。禁制に見える祗園会とは、博多祗園山笠のことで、当時山笠の作(つく)り物に筥崎松原の松を盛んに利用したようです。
(釈文) | 大内氏奉行人禁制 |
博多祗園山笠図「聖徳金龍瑞」 嘉永7年(1854)・三苫英之(黒田資料) |
黒田資料中の山笠絵図
展示の博多祗園山笠図は、福岡藩主黒田氏に伝えられたものです。山笠を専門に描いた絵師三苫(みとま)氏の記録『古代山笠絵図由来』によると、彩色の山笠図を旧暦3月中旬までに仕上げ、博多の年行司を通じて藩主黒田氏に納めたようです。
三苫氏は代々惣吉(そうきち)を名乗り、初めて山笠図を描いたのは宝暦2年(1752)で、初代(1727~1803) は主清と号しました。2代(1763~1824)のあと、本格的に活躍するのが英之と号した3代(1803~1879)で、作風は確かな構図と力強い描線が特徴です。4代(1833~1887)も主清と号し、色彩が鮮(あざ)やかで、全体として華麗な作風といえるでしょう。