平成5年10月5日(火)~平成6年1月9日(日)
金銅仏 博多遺跡群出土 |
6世紀の中ごろ、仏教が百済(くだら)から日本に伝えられ、その教えは人々の生活のなかに次第に深く広がっていきました。平安時代の中ごろ、仏の教えが衰え、戦乱や天災が数多く起る「末法」の世が来るという考えが広まりました。釈迦(しゃか)の教えが後の世に伝わらなくなることを恐れた人々は、大切な経典を地下に埋め、未来に残そうと考えました。これが「経塚(きょうづか)」です。また、粘土板に経典を陰刻した「瓦経(がきょう)」が埋納されることもありました。福岡市周辺では背振山経塚、飯盛山経塚、愛宕山経塚、西油山経塚等が古くから知られていますが、平成元年、筥崎八幡宮の境内で36枚もの瓦経がまとまって発見され、話題を呼びました。また、最近の市内の発掘調査でも、瓦経をはじめ平安時代から室町時代にかけての、多くの仏教関係遺物が見つかっています。今回は福岡市とその周辺で出土したこれらの遺物をあわせて展示しました。いにしえびとの嘆きや、これらに込められた祈り、願いを感じていただければ幸いです。
最後に筥崎八幡宮の格別のご厚意に対して厚くお礼申し上げます。
2号主体部の構造 |
京(きょう)の隈経塚(くまきょうづか) (一部常設総合展示室に展示中)
福岡市城南区田島三丁目の古墳時代前期の前方後方墳「京の隈古墳」の墳丘上に2基の経塚が営まれていた。1号、2号ともに石室を設け、特に1号は、そのなかに須恵器大甕に入れた青銅製の経筒を埋納し、中国製黄釉鉄絵大盤(こうゆうてつえだいばん)が外容器の蓋として使用されていた。2号には大型の石製経筒がおかれていた。
西油山経塚(にしあぶらやまきょうづか)
福岡市早良区西油山原の天福寺(てんぷくじ)跡にある。古来より数十本にも及ぶ経筒が発見されているという。陶製、銅製、石製の経筒のほか、中国製の陶磁器が発見されているが、多くは散逸し所在が明かでないものも多い。
背振山経塚の銅製経筒 |
背振山経塚(せふりやまきょうづか)
福岡市と佐賀県神埼郡背振村の境界にある標高1055.5mの背振山に営まれた。山岳信仰の対象となり、密教寺院が作られ、背振修験の道場となった。佐賀県側の中腹には霊仙寺が構えられ、その跡地で多くの経塚が発掘されている。
四王寺山経塚(しおうじやまきょうづか)
粕屋郡宇美町と太宰府市にまたがる四王寺山の山頂から中腹にかけて、多くの経塚が営まれた。特に、山頂の毘沙門(びしゃもん)堂付近では8基が確認され、ここから発見されたものは重要文化財に指定され、宇美八幡宮に保管されている。
武蔵寺経塚(ぶぞうじきょうづか)
筑紫野市武蔵にある武蔵寺境内にあり、10基の経塚が確認されている。昭和40年(1965)、「武蔵寺」の刻銘のある経筒が発見され注目された。これらは須恵器を外容器として小石室のなかに安置されていた。