平成5年10月5日(火)~平成6年1月9日(日)
飯盛山経塚(いいもりやまきょうづか)
福岡市西区飯盛の標高382.4mの飯盛山山頂にある。明治時代と大正13年(1924)に、「法華経」、「無量義経」、「観普賢経」、「般若心経」、「仁王経」などを陰刻した瓦経計291枚前後が発見されたが、出土品は現在全国に分散して保管され、県内の一部は県指定文化財である。願文に永久2年(1114)、修行入道往西、郡司壬生信道などの、年号、人名が刻まれ、造営年代とその関係者が分かる。
愛宕山経塚(あたごやまきょうづか)
福岡市西区愛宕二丁目の愛宕山で、愛宕神社南側の崖下から瓦経が発見され、経塚の存在が想定されている。貝原益軒の「筑前国続風土記」に、この辺りで「法華経」の文字の刻まれた瓦が見つかったいう記述があるのに注目した高野孤鹿氏が、昭和29年(1954)から43年(1968)にかけ、破片32個を採集した。瓦経には「法華経」のほか、「観普賢経」がある。
瓦経 筥崎宮出土 |
筥崎八幡宮出土(はこざきはちまんぐうしゅつど)の瓦経(がきょう)
平成元年(1989)7月5日、筥崎宮境内で工事中に発見されたものである。陰刻された経典は、「仁王般若波羅密経(にんのうはんにゃはらみきょう)」および「摩訶般若波羅密多心経(まかはんにゃはらみたしんきょう)」である。出土枚数は「仁王般若波羅密経」が40枚中35枚分、「摩訶般若波羅密多心経」が全1枚分である。このうち、完形は10枚である。
「仁王般若波羅密経」は、「金光明経」、「法華経」」とともに護国三部経と呼ばれるもので、これを陰刻した瓦経は4例目になり、全国的にも珍しい。また、瓦経の発見例の多くは断片的なものであり、このようにまとまりをもった経典が、良好な保存状態で出土した例は少なく、きわめて貴重な文化財である。このため、福岡市指定文化財に指定された。
柿経 井相田遺跡出土 |
井相田遺跡(いそうだいせき)
福岡市博多区井相田にある。昭和61年(1986)、福岡市立板付中学校の建設工事にともなう発掘調査で、奈良時代から室町時代にかけての遺跡が見つかった。特に室町時代の池から、「法華経」8巻、本数2,141点からなる一束の柿経(こけらきょう)が見つかり注目された。この池からは柿経のほか、卒塔婆(そとうば)、笹塔婆、人骨、儀式に使われた土師器の皿等が見つかっており、いずれも供養のために使われたものと考えられている。
用語解説
経塚(きょうづか)
末法思想の影響で極楽往生を願う人々は、作善行為として経典を容器に入れて地中に埋め、経典を後世に伝えようとした。この施設が経塚である。経塚の設置は11~12世紀に全国で盛んに行なわれたが、特に京都府、福岡・佐賀県に集中し、またその形態を変えながら江戸時代まで続けられた。
経筒(きょうづつ)
経塚に経典を埋納する際、紙に書かれた経典を保護するための筒形の容器。金属製・陶製・磁製・石製のものがある。金属製のものでは銅製が多く、経塚造営の発願者名や年月日、経典名、願意などが刻まれていることがある。陶製の場合多くは中国製で、日常の生活用容器が経筒に転用されることもあるが、経筒専用容器として中国に生産注文をすることもあった。
瓦経(がきょう)
粘土板に経文を陰刻して焼いたもの。紙に書かれた経典に比べ、腐らないという性質に着目され、経塚などの地下埋納用に作られた。しかし、全国で50ヶ所ほどしか確認されておらず、経塚全体の3%程度に過ぎない。後々まで経典を残せるという特性にもかかわらず、広くは流行しなかったようである。
柿経(こけらきょう)
柿(こけら)とは木片のことで、木片に写経したものである。作善(さぜん)、追善(ついぜん)のために写経されたものであるが、経塚などのように経典を保存することよりも、写経の行為そのものの意味が大きかった。写経した木片をまとめて一束にし、埋納、または奉納した。
一字一石経(いちじいっせききょう)
小石一個一個に経典の文字一字を書写したもの。これらをまとめて、直接、あるいは甕に入れて地中に埋納する埋経の一形態であるが、経典の保存には不適当で、柿経のように作善、追善供養のために行なわれた。鎌倉時代末から江戸時代にかけて盛んに行われた。