平成5年11月30日(火)~平成6年1月30日(日)
印子金 |
藩札
最初に藩札を発行したのは越前福井藩で、寛文元(1661)年に銀札を発行した。藩札は、幕府貨幣(金・銀・銭の3貨)との関係から金札・銀札・銭札があった。
全国諸藩における藩札発行状況についてみると、経済的発展度の高い近畿以西の西日本諸藩に比較的多いことが特徴的である。それは銀遣い経済圏の西日本諸藩で藩札(銀札)の発行量が多かったことからもわかる。その量は、明治4(1871)年9月の調査によると、西日本諸藩が全体の約60パーセントを占めていた。
福岡藩が最初に藩札を発行したのは、元禄16(1703)年であった。藩札は、当初領内における通貨不足を緩和することを目的として発行された代用貨幣であったが、その後藩財政の窮乏を打開するために乱発された。福岡藩では、筑前札所、郡役所、生蝋会所、御救役所、勘定所、奈多新開所、町奉行、福岡博多年行司、寺山開田会所等を発行所として多種類の藩札が発行された。
その後、明治2(1869)年10月に明治政府は全国諸藩に対し、従来の藩札製造高の報告を求めるとともに新規の藩札製造を禁止し、さらに同4年6月にはその通用を禁止した。
徳川幕府の貨幣制度
金貨(計数貨幣) 基本単位「両」 1両=4分(ふ)(歩).1分=4朱
銀貨(秤量貨幣) 基本単位「匁(もんめ)」 1匁=10分(ふん).1,000匁=1貫(貫目・貫匁)
銭貨(計数貨幣) 基本単位「文(もん)」 1,000文=1貫文
(注)1.秤量銀貨(重さが価値を表す銀貨)の単位「匁」 は、重量の単位そのものである。
2.銀貨は、江戸時代後期に入り、一分銀、一朱銀といった金貨体系の計数銀貨が多く発行されるようになった。
3.金貨、銀貨、銭貨相互の交換については、幕府公定の交換相場が示されていたが、実際の取引では時価相場で交換された。
1604年 慶長9 | 1609年 慶長14 | 1700年 元禄13 | 1842年 天保13 | 1867年 慶応3 | 1869年 明治2 | |
銀貨 | 匁(43) | 50 | 60 | 60 | (80~99) | [1868年廃止] |
銭貨 | 永楽銭1,000文 鐚(びた)銭4,000 | 4,000 | 4,000 | 6,500 | (8,200~8,400) | 10,000 |
日本銀行金融研究所「日本貨幣参考資料」より |
炭鉱札
炭鉱札は、炭鉱の経営者が発行した私札で、山札(やまふだ)、斤券(きんけん)、石炭札、炭券(たんけん)、切符等とも呼ばれた。
炭鉱札は、賃金支払いの現金の代わりに支払われた。1斤券が1厘、100斤券が10銭、1,000斤券が1円の割合で支払われ、毎月きまった日に現金と交換された。しかし実際にはなかなか現金に交換してもらえず、炭鉱内の売店や炭鉱指定店だけで通用した。そのため現金を必要とする場合には、納屋頭や炭鉱指定店等で炭鉱札を現金と両替したが、2割~5割という高い割引料をとられることもあった。
炭鉱札は、明治10年代から使用され、大正8(1919)年に福岡鉱務署から炭鉱札使用禁止に関する通達が筑豊石炭鉱業組合に出されるまで盛んに発行された。同年に筑豊石炭鉱業組合は、この通達を受け入れ、賃金の支払いはすべて現金とすることとした。しかし、それ以降も炭鉱札は、購買券や商品券などに形をかえて、昭和30年代まで使用されていた。