平成6年4月5日(火)~6月5日(日)
黒田如水像(承福寺所蔵) |
黒田長政像(承福寺所蔵) |
太刀 名物日光一文字(国宝) |
如水・長政の刀剣と武具
黒田如水(じょすい)(孝高(よしたか))と長政(ながまさ)父子は、安土桃山(あづちももやま)から江戸時代初めにかけ、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)の3人の天下人に仕えた武将です。如水の活躍は信長の中国攻めへの参加に始まり、その後父子共に秀吉の四国・九州陣(じん)や小田原(おだわら)陣などの全国統一事業や、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(えき)に従軍しました。その間、豊前中津(ぶぜんなかつ)12万石の大名となります。さらに慶長5(1600)年の関ケ原(せきがはら)合戦において、長政は家康の東軍に参加し、西軍との戦いを勝利に導びき、如水は九州各地の西軍を打破りました。合戦後に長政は家康から筑前の国を与えられ52万石の大名となりました。このような父子の足跡(そくせき)は『黒田家譜(かふ)』などの歴史書に記されていますが、彼らの残した刀剣や武具も、それを示す証人(しょうにん)といえましょう。今回はそれらを展示することで、如水・長政の生きた時代がどのようなものだったのかを紹介します。
如水・長政の足どりとゆかりの品々
信長の中国平定(へいてい)戦など(1575~82)
孝高(如水)は木下藤吉郎(とうきちろう)(秀吉)を通じて信長に従い、秀吉と共に播磨(はりま)国(現兵庫県)の佐用(さよ)城・三木(みき)城攻略や、備前(びぜん)・備中(びっちゅう)(現岡山県)の平定に転戦(てんせん)。この間、「圧切(へしきり)」を信長から与えられる。また秀吉に代り四国・淡路(あわじ)の安宅(あたき)氏と戦う。その時の刀が「安宅切(あたきぎり)」。
秀吉の四国・九州陣(1585~87)
本能寺(ほんのうじ)の変の後、信長の跡を継(つ)いだ秀吉は孝高を先手(せんて)にし、四国長曾我部(ちょうそかべ)氏を降し、次いで九州平定に移る。孝高は軍奉行(いくさぶぎょう)として豊前(ぶぜん)小倉へ入り足場をかため、後に秀吉の弟秀長に従い転戦。その功で与えられた豊前中津で、豪族城井氏が従わず、長政がその城を攻めるが敗れ、後にようやく討果す。この時に長政が使った刀が「城井兼光(かねみつ)」。
小田原陣(1590)
秀吉は、関東の後北条(ごほうじょう)氏の居城(きょじょう)小田原を大軍で囲み、ついに降服させる。孝高はその和議の仲介をしたことで、北条氏直(うじなお)から礼として、北条氏の名宝「日光一文字(にっこういちもんじ)」の太刀などを譲られたといわれる。
文禄・慶長の役(1591~98)
全国統一を果した秀吉の命で、孝高・長政も朝鮮へ渡るが苦戦する。海戦での船中における切り合いで、長政が脇差で碇の爪先を切取ったが、その時の脇差が「碇切(いかりきり)」。
関ケ原の合戦(1600)
秀吉の死後の天下分け目の戦いで、長政は逸速(いちはや)く家康の東軍に参加、歯朶前立(しだまえたて)の南蛮兜(なんばんかぶと)を与えられる。また戦場で政常の槍を使う。如水は、九州各地で石田三成方を破る。権藤長刀(ごんどうなぎなた)はその時の敵の勇士の持ち物。戦後、筑前一国を得た長政は愛用する鑓(やり)を「一国(いっこく)」と名付ける。