平成6年4月12日(火)~6月26日(日)
早良区有田(ありた)・小田部(こたべ)・南庄(みなみしょう)一帯に広がる有田遺跡は、環溝(かんごう)をもつ初期農耕集落として著名な遺跡です。福岡市教育委員会では有田遺跡を昭和41年から継続して発掘調査し、調査回数は17O回を越えました。その結果、弥生時代の資料の他に、旧石器時代から現代に至る各種の重要な資料を得ました。
その有田遺跡も現在は宅地化し、現地では遺跡を確かめることもできません。今回、有田遺跡の主な出土遺物を時代順に展示しました。小さな歴史の一端を御覧下さい。
有田遺跡の位置と立地
有田遺跡は早良平野の北端近くにある孤立した小さな台地上にあり、それは平野の海に浮んだ小島のような存在でした。台地の頂部は周辺の平野部より8m高く、以前は台地の上に立つと平野のはるかかなたまで見渡せ、この絶好の立地条件のため、各時代に住居や城が作られました。
狩猟・採集のムラ~旧石器・縄文時代
25,000年前~2,500年前頃
この時代は動物の狩猟や植物採集で食料を得ていましたが、その遺物は台地の南側で出土します。生活跡や墓などの遺構は後の時代に破壊されほとんど残っていません。台地の西側で見つかった約4,000年前の90基の土坑(穴)は、ドングリの貯蔵穴に似ていますが、土坑の中に柱のような木を立て、土坑を楕円形に配置する、類例のないものです。
旧石器時代の台形石器 | 約4,000年前の縄文土器 | 石斧 |
弥生時代初頭の深い環溝 | 弥生時代前期の土器 |
稲作のムラ~弥生・古境時代
西暦前4OO年頃~西暦57O年頃
米作りが日本に伝わった直後に、有田でも稲作が始まりました。台地の西側に水田が作られ、台地上には、集落の周囲に溝を巡らした(環溝)ムラが作られました。西暦前1世紀頃までは現在の西区吉武地区を中心としたクニに属していたと考えられますが、その後は明らかではありません。6世紀の後半まで、有田ではほぼ継続してムラが営まれました。古墳時代の村長の墓である古墳は台地の北部に3基作られましたが、詳しい時期はわかっていません。