平成6年4月12日(火)~6月26日(日)
那津官家(?)の倉庫と柵 | 「成」と書いた土師器 |
那津官家(なのつのみやけ)(?)と早良郡衙(さわらぐんが)(?)~飛鳥時代から奈良時代
弥生時代より続いた竪穴住居群が6世紀後半にほぼ姿を消します。代って大型の倉庫群が台地の各地に作られました。倉庫群は3列の柵に囲まれ、同様な倉庫は博多区比恵(ひえ)遺跡でも発見されており、日本書紀にある537年創建と伝わる那津官家に関連した建物と考えられます。7世紀末になると有田には早良郡の役所(郡衙)に似た建物が作られました。農民のムラから権力者の土地へと代ったのです。8世紀後半にはその建物群も姿を消しました。
城出土の軒瓦 | 城出土の湯釜 |
武士の時代~鎌倉時代から戦国時代
武士が支配する時代になると、有田遺跡は早良郡を支配するための拠点となり、武士の館(やかた)が作られました。現在(1)12世紀頃の館、(2)14~15世紀頃の舘、(3)16世紀前半~中頃の館、(4)16世紀後半の城が発見されています。(4)の城は小田部(こたべ)氏の城と考えられています。小田部氏は大分の大友氏をバックとし、安楽平(あらひら)城(現早良区荒平山)を本城とする豪族で、1580年佐賀の龍造寺氏の援護を得た糸島の原田氏によって滅ぼされ、同じ頃この城も廃城になりました。
江戸時代の国産磁器 |
再び農村ヘ~江戸時代
豊臣秀吉の統一後、筑前国は小早川隆景に、関ケ原の戦い後は黒田長政に与えられました。有田遺跡一帯は三ヶ村に分れ、農村に戻りました。遺跡の中央近くで発見された18世紀頃の住居の跡は、1,000m2を越える屋敷地の周囲に溝が掘られ、門の付いた塀や井戸を有するなど、名主以下の村方三役、あるいは豪農クラスの屋敷地と考えられます。
戦前の食卓塩のびん |
そして現代へ
純農村地であった有田遺跡周辺も戦争の災禍からは免れず、遺跡地内の各所に防空壕が作られました。壕内からは戦後に埋めた時に一緒に捨てられた品々が出土しており、戦中・戦後の時代の断片を物語っています。遺跡地内は昭和42年に区画整理が行われ、その後福岡市の拡大に伴って急速に宅地化し、昔の姿はほとんど失われました。
縄文時代の貯蔵(?)穴群(116次調査) | 飛鳥~奈良時代の大型建物群(107次調査) |
今回の展示は福岡市教育委員会が長年に渡って調査した成果の一部で、福岡市埋蔵文化財課、埋蔵文化財センターの協力により開催するものです。