平成6年6月14日(火)~8月7日(日)
懐中時計(かいちゅうどけい) |
福岡大空襲のおり、福岡市千歳(ちとせ)(千年)町2丁目(現在の福岡市博多区神屋(かみや)町)の安部氏宅の金庫の中で焼け残ったもの。千歳町は博多築港(ちっこう)の建設と埋立てによって新しくできた町で、貿易会社や材木商など港湾に関連した会社や商店が多かった。空襲では、大博通りより西側の同町2・3丁目で大きな被害を受けた。 |
開催にあたって
昭和20(1945)年6月19日夜半の焼夷弾(しょういだん)攻撃で、福岡市は大きな被害を受けました。この一夜で市内では、かけがえのない多くのものを失いました。しかし今日では、この日のことを知る人も少なくなりました。この空襲だけでなく、この戦争のこと-人々は国の内外でどのようにくらし、また何をしたのか-を、私たちはどのくらい知っているでしょうか。
本年も6月19日を迎えるにあたり、当館に収蔵されている資料から、戦時中の生活の様子が窺(うかが)えるものを展示しています。今日の平和なくらしと未来について考える機会になればと思います。
館蔵資料で御覧いただく「戦争とわたしたちのくらし」も4回目となりました。
今回は、昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲についての資料に加え、戦時下の町内会制度に関するものを展示します。戦前期の町内会は、現在の自治会とは違い、戦時体制が創(つく)られていく中で、政府(内務省(ないむしょう))によって創設されました。その下には数軒ごとのグループである隣組(となりぐみ)が置かれ、相互に監視しながら、戦時下の諸制度をすすめていく力となりました。配給(はいきゅう)や戦時債券(せんじさいけん)の消化、防空活動などの人々のくらしは、町内会制度を抜きにしては、語ることはできません。
最後になりましたが、本展示にあたり、御指導いただきました方々、ならびに資料を御寄贈下さいました皆様に、厚く御礼申し上げます。
ポスター |
大蔵省(おおくらしょう)と各都道府県(とどうふけん)が国民に貯金を呼びかけたポスター。国債(こくさい)や債券(さいけん)の購入が割り当てられた時のために貯金するというもの。払戻(はらいもど)しは、空襲(くうしゅう)などの非常時は現金であったが、普段(ふだん)は国債(こくさい)で支払われることになっていた。 |
戦時下(せんじか)の町内会制度(ちょうないかいせいど)
昭和15(1940)年9月11日の内務省訓令(ないむしょうくんれい)で、都市の住民を組織するために創(つく)られました。住民の登録、生活物資の配給、国債(こくさい)の割(わ)り当(あ)て消化と貯蓄(ちょちく)の奨励(しょうれい)、政策の宣伝(せんでん)、防空活動、出征兵士(しゅっせいへいし)の歓送(かんそう)など、昭和22(1947)年に廃止されるまでに、さまざまな役割を果たしました。
焼夷弾(しょういだん) |
通称「M69」と呼ばれる小型の油脂(ゆし)焼夷弾(ナパーム弾)。これを数十本束ねた状態(集束(しゅうそく)焼夷弾)で投下された。アメリカ軍は日本の家屋の構造や市街地の集住状況を研究し、日本の都市への空襲に最も適した焼夷弾として、このナパーム弾を使用したと言われている。これは尾翼(びよく)の役目を果した麻製のリボンが焼け残って、筒の中で固まっているのが見え、珍しい。 |
福岡大空襲(ふくおかだいくうしゅう)
昭和20(1945)年6月19日午後11時11分に始まった焼夷弾攻撃(しょういだんこうげき)を「福岡大空襲」と呼んでいます。2O日午前O時53分までのおよそ2時間に、221機のB29爆撃機(ばくげきき)から約1,500トンの焼夷弾が投下されました。その被害は市内全域に及(およ)びましたが、特に奈良屋(ならや)、冷泉(れいせん)、大名(だいみょう)方面で大きな被害を受けました。