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No.066

黒田記念室

筑前の農書展

平成6年7月19(火)~9月25日(日)

江戸時代の農書と筑前

 江戸時代は農業が産業の中心で、農業に関する新しい知識や進んだ技術が生み出されました。それらの知識や技術は農民自身の手によって書き残されたり、専門の農学者によって出版され、農書(のうしょ)とよばれて現在の私達に伝えられています。今回の展示では、江戸時代に広く使用された代表的な農書のうち、とくに筑前国(ちくぜんのくに)に関係の深いものを紹介します。

 筑前は黒田氏52万石の福岡藩領で、その豊かな自然的条件により農業の盛んなところです。とくに元禄時代までは藩による海浜、山野の新田開発が進み、筑紫米(つくしまい)といわれる稲作の発展がみられ、また菜種(なたね)などの特産物も始まります。このような経済と社会の中で新たに生み出された数多くの農民の安定した経営をはかることは、藩の為政者だけでなく、農業を研究する人々の目的でもありました。

 しかし享保(きょうほ)の大飢餓(だいききん)(1732年)は筑前に死者約10万の大被害を与え、以後、稲作では鯨油を利用する害虫駆除(がいちゅうくじょ)法が広まり、また農民の間では副業としての櫨栽培(はぜさいばい)が盛んになります。とくに櫨による蝋(ろう)作りは、藩の農村立直しと財政難の打開の策として取上げられますが、これらの新しい農業技術を研究し農書によって全国に普及させようとした学者も現れました。さらに幕末には、福岡藩士の中で西洋科学を学びながら農業研究に進んだ人々が農書を残しています。明治に入ると江戸時代から培われた筑前の先進的な農業技術を全国に普及させようとした人も現れました。

貝原益軒(かいばらえきけん)(1630~1714)

 元禄時代の福岡藩の儒学者(じゅがくしゃ)だが、動植物(どうしょくぶつ)や鉱物の知識を学ぶ本草学(ほんそうがく)に通じ、中国明代の「本草綱目(こうもく)」をもとに「大和本草(やまとほんそう)」を著した。農学の面では野菜の栽培方法の研究書「諸菜譜(しょさいふ)」を著し、中国の「農政全書(のうせいぜんしょ)」の研究を行なって、農学者の宮崎安貞と交流している。

宮崎安貞(みやざきやすさだ)(1623~1697)

 広島藩士の子として安芸(あき)国(現広島県)に生れたが、25才で福岡藩2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)に仕えた。30才で浪人(ろうにん)し、現在の福岡市西区周船寺(すせんじ)に住んで、自ら農業に従事しながら農業研究に努めた。この間、諸国をめぐって畿内(きない)地方を中心とした進んだ技術の見聞をひろめている。また彼は私財を投じて新田をひらき地元の農業発展に尽した。現在でも5月15日には安貞祭が催されている。

農業全書(のうぎょうぜんしょ)(1696年初版)

 安貞が、中国明代(みんだい)の「農政全書(のうせいぜんしょ)」の記述と、自分がおこなった全国の進んだ農業技術の研究をもとに著した農書。最初に農業技術や農家経済はいかにあるべきかを述べた総論(そうろん)をもち、続いて各種作物の栽培方法を説明するがとくに稲作や日常の食料作物の記述に詳しい。効率的な農業経営による農民生活の向上をめざしたもので、日本で最初に出版された本格的な農書として全国に広まり、何度も再版されて江戸時代を通じて読まれている。

農業全書(農事総論) 農業全書(田植え、草取り) 農業全書(稲作)
農業全書(農事総論) 農業全書(田植え、草取り) 農業全書(稲作)

大蔵永常(おおくらながつね)(1768~?)

 豊後国日田(現大分県日田市)の綿(わた)作り農家に生れ、20才で故郷を出て九州各地の農業技術を学ぶ。31才で大阪に住みいろいろな職業につきながら畿内(きない)の先進農業を研究し、37才の時に「農家益(のうかえき)」を出版。以後、「油菜録(ゆさいろく)」や「農具便利論(のうぐべんりろん)」など30余の農書を著した。幕末期には一時、諸藩で農業指導に当たっている。没年は不明だが90才前後の高齢で没した。

農家益
農家益(櫨畠)

農家益(のうかえき)(1802年刊)

 永常の最初の農書で、櫨(はぜ)の栽培方法と製蝋(せいろう)方法が、多くの図とわかりやすい文で説明されている。筑前国の農民高橋善三が延享4年(1747)に書いた「窮民夜光(きゅうみんやこう)の珠(たま)」を下敷にしており、筑前の進んだ技術が研究され紹介されている。永常は農家が特産物を副業とすることで収入を上げ生活を向上させることを説き、晩年の「広益国産考(こうえきこくさんこう)」に至る生涯の主張となった。


除蝗録
除蝗録(田の虫とり)

除蝗録(じょこうろく)(1826年刊)

 稲の害虫の駆除(くじょ)(退治)方法を説いた農書で、とくに注油法(ちゅうゆほう)の普及をはかったもの。注油法は水田に鯨油(げいゆ)を散き、その上に稲に付いた害虫を払い落して、虫を窒息死(ちっそくし)させる方法で、17世紀後半に筑前にはじまり、享保(きょうほ)の大凶作後に西日本に広まった。永常はこの注油法の全国的な普及をはかり、のちに後篇も出版している。


妙畠菜伝記
妙畠菜伝記

城下町福岡の農業

 「妙畠菜伝記(みょうばたさいでんき)」は、福岡の西の武家屋敷地である地行(じぎょう)1番丁に住んだ武士が書いたもの。海岸近くの自分の拝領屋敷(はいりょうやしき)内の砂地での野菜の栽培方法を、「農業全書」を参考に工夫して子孫に伝えたもの。近所の武士の間にも広まったと思われ、その写しが残されている。


農家備要
農家備要
勧農新書
勧農新書

幕末~明治の筑前農学

 11代藩主黒田長溥(くろだながひろ)(1811~1887)は洋学を好み、長崎に藩士を留学させ西洋技術を学ばせた。農学の面でも自ら稲の害虫駆除法を研究したといわれる。河野禎三(かのうていぞう)(1817~1871)は、藩の長崎留学生の一人ではじめ医学や化学を学んだが、農業によって藩や国を富ますために農業の発展の必要を説き、自ら各地を巡って研究をおこない「農家備要(のうかびよう)」を著した。後に京都府の役人として農業技術の普及をおこなう。一方林遠里(はやしおんり)(1831~1906) は、明治維新後に帰農したが、稲(いね)の種籾(たねもみ)を寒水(かんすい)に浸(ひた)し丈夫にする寒水浸(かんすいしん)法を説いた「勧農新書(かんのうしんしょ)」を著し、また筑前の農法を全国に普及する勧農社を設立して農業による富国論を説いている。

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