平成6年10月18日(火)~12月4日(日)
人面墨書土器(大野城市仲島遺跡) |
貝面(東三洞遺跡) |
土笛(宗像市光岡長尾遺跡) |
銅戈についた邪視面(白塔遺跡) |
私たちの暮らしは、自然との共生の中で成り立っており、高度な文明社会とはいえ気象条件や自然現象による影響ははかり知れません。
かつて、日本列島に住みはじめた人々も又、自然との共生の中で生活していました。狩猟・漁撈・採集の生活を基礎とした縄文時代の人々は、自然現象や自然物に対して原始的な信仰をもっていました。弥生時代には、農耕に伴う祭祀儀礼を中心として、新しいまつりがおこなわれ、そして階級社会の形成とともに、政治的なまつりごとへと変化していきました。
中国から仏教や道教思想の影響を受けた奈良・平安時代は、朝廷を中心とした祭祀がおこなわれました。天皇を中心として皇族、貴族や官人たちは、愛憎怨念・別離哀情・栄達失意の葛藤が渦まく都市の中で、鎮めとしての呪術をおこない、鎌倉時代以降は世の乱れと共に呪いが引きつがれていきます。
ここでは、考古・民俗資料を通じて、日本人の精神生活の多様な側面を紹介いたします。
縄文時代のまつり
自然環境に依存した生活であった縄文時代の人々は、自然物や自然現象(太陽・月・星・巨木・巨岩・山・雨・風・雲) に神の存在をみとめる原始的信仰をもっていました。人々はおまもりとして土版・岩版をもち、豊かな収穫を祈って、円文・蛇などの多彩な呪術的な文様で土器をかざりました。又、土偶や石棒に代表されるような呪術世界をもっていたのです。
土偶は、九州では後期に多く作られます。成人の女性像を表現しており、女性の母としての性格にかかわっています。生命を誕生させる女神として喜びをあらわし、安産の祈願や、食糧の増産を願って作られたものと考えられます。
弥生時代のまつり
稲作技術と金属器・磨製石器などをもった外来の新文化は農耕儀礼をはじめとして、ト占(ぼくせん)など多様な祭祀や信仰をもたらしました。
3世紀の東アジア世界を描いた『魏書』の東夷伝、馬韓の条には「常に五月を以って種を下し訖(おわ)るや、鬼神を祭る。群衆(ぐんしゅう)、歌舞し飲酒し昼夜休む無し。倶(とも)に起って相随(あいしたが)い、地を踏むこと低く昮(たか)く手足相応ず。節奏鐸舞(たぶ)に例たる有り。十月農功畢(おわ)るや亦復元の如し。」などの農耕儀礼の記事がみられます。田の神・水の神・死者へのまつり、祖霊・穀霊へのまつりなど、弥生時代にも朝鮮半島と共通のまつりがあったのでしょう。
水神のまつり
弥生時代にはじまった水稲耕作では灌漑施設の整備が最も重要でした。水の管理は、あらゆる作物や家畜を肥育し、豊かなムラを維持し、発展させるために不可欠でした。灌漑用の水路では田の神がまつられ、集落内に作られた井戸では水の神がまつられました。祭祀は井戸水が涸れないように願うだけではなく、雨乞い・止雨乞い・洪水を防ぐための鎮めとしてもおこなわれ、古墳時代には独特な土製の祭祀具が使われました。又、古代には道教思想の影響を受けて馬は重要な水神の鎮め具となりました。
まじない
中国の制度と文物をとりいれて、強力な律令国家が完成した奈良・平安時代は、国家機構が整備されていった一方で、「国家」の枠組みの中の官人や都市住民は人生の明暗に悲嘆し、苦悩、畏怖を甘受せざるをえませんでした。そこに仏教・神社信仰・道教・陰陽道などが絡み合った呪術的な習合宗教が成立しました。暗黒の世界から脱出するための”はらい” と祈願、そして他人を暗い世界へつきおとすための”のろい”も、都市住民の心の鎮めとして一定の役割を果たしていたのです。