平成6年12月6日(火)~平成7年1月22日(日)
7.衣笠守昌筆 水滸伝 武松図 |
8.衣笠氏所用印 |
●衣笠氏と大和絵
多くの大和絵の画題を描いた2代守弘には興味深い話が『吉田家傅録』上 享保19年(1734)の項に残されています。それは、6代福岡藩主黒田継高が唐物(からもの)(ここでは大陸からもたらされた漢画風の絵画等のことか)を好まないため吉田氏が衣笠守弘に命じて室内装飾を継高好みに変更させたというものです。大和絵の画題を多く手掛けた衣笠氏の絵画制作活動を象徴するエピソードといえるでしょう。
●絵馬制作
藩の御用絵師は、藩主あるいは藩士の依頼に応じて絵馬を制作しました。衣笠氏が制作した古い絵馬としては初代守昌筆の「水滸伝武松(すいこでんぶしょう)図」(鳥飼八幡宮蔵)(図7)、3代守恒(もりつね)筆の「三十六歌仙絵」(宗像市七社神社蔵)などが知られています。しかし、現存する絵馬のほとんどは6代守由(もりよし)あるいは7代守是(もりよし)が手掛けた絵馬です。
●国絵図制作
国絵図とは江戸幕府が国の境界、道路、山川の変化や石高の増減を明らかにするために諸大名に命じてつくらせた国別、領分別の絵地図のことです。福岡藩では、元禄10年(1697)に幕府が命じた国絵図制作にあたって、はじめ小方家3代守房(もりふさ)(喜六)を絵図総裁に任命しました。しかし、守房が途中でその職を辞したため衣笠守昌(もりしげ)(半助)があとを継ぎ、息子守弘(もりひろ)(半太夫)や上田氏、笠間氏、そのほか町絵師11人を率いてその制作にあたりました。その後この国絵図は約3年をかけて完成し、元禄13年(1700)守昌らは江戸へ持参するよう4代藩主綱政に命じられます。これらは諸国絵図総裁に提出されたのち狩野良信によって清書され、幕府に納められました。守昌らは翌年帰国し、褒美を賜ったといいます。
9.衣笠半太夫筆 遠賀郡豊前堺行相図 |
衣笠氏の絵師
衣笠氏系図 |
衣笠守昌(もりしげ)/?~宝永2年(1705)
衣笠家初代。黒田二十五騎の一人衣笠因幡景延の孫と伝える。通称半助。駿毛翁と号す。鍛冶橋(かじばし)狩野家の祖探幽(たんゆう(にゅう))の門人。福岡藩主3代光之(みつゆき)、4代綱政(つなまさ)に仕える。家禄は10石3人扶持(ふち)のち2人扶持を加増。元禄10年(1697)の国絵図制作に携わった。
衣笠守弘(もりひろ)
?~寛保3年(1743)
衣笠家2代。守昌の実子。通称半太夫のち半助。守廣、守重、守隆の名も伝えられる。隠居して要人守高と号す。父守昌(もりしげ)とともに元禄の国絵図制作に携わった。
衣笠守由(もりよし)
天明5年(1785)~嘉永5年(1852)
衣笠家6代。東長兵衛の次男として生まれ、5代守起の養子となる。通称久之助のち要。福草舎と号す。筑前の町絵師桑原鳳井(くわはらほうせい)の最初の師と伝える。
衣笠守是(もりよし)
文明5年(1822)~明治27年(1894)
衣笠家7代。高木延蔵の子として生まれ、6代守由の養子となる。通称半蔵。華旭斎、翻叟と号す。博多秋月蔵本に住していた。
衣笠守正(もりまさ)
嘉永4年(1851)~大正元年(1912)
衣笠家8代。守是(もりよし)の実子。通称八郎。探谷と号す。明治政府の成立とともに家業御免となったため、市中で画塾を開く。近代の日本画家冨田渓仙(とみたけいせん)が初めて画事を学んだ絵師。