平成7年1月24日(火)~4月2日(日)
城下遠近惣図(筑前名所図会) |
大島鯨組の図(筑前名所図会) |
雷山(筑前名所図会) |
描かれた筑前について
筑前(ちくぜん)の国は、北と西は響灘(ひびきなだ)、玄界灘(げんかいなだ)に面し、北東は福智(ふくち)山地、南は筑後(ちくご)川、西に脊振(せぶり)山地によって囲まれ、中央を三郡(さんぐん)山地が走り、川と平野が広がる自然の豊かなところで、その美しさは古代では万葉集、中世では幾つもの紀行文の中で称(たた)えられています。また古くから大陸との接点としての歴史や文化を持つところです。
江戸時代になっても現代とは比べものにならないほど豊かな自然が残されていたと思われます。またこの時代は、筑前の各地で産業や交通が発展し、人々の自然に対するさまざまな働きかけによって、新しい風景、風物も生み出されたことでしょう。
本展示では江戸時代後期の博多の文人奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)が著した「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」の中から、とくに当時の筑前の風景、風物が描かれている部分を、黒田資料などとあわせて展示し、今では失なわれた風景を偲(しの)ぶとともに、当時の人々の生活や文化を紹介していきます。
奥村玉蘭と「筑前名所図会」
奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)(1761~1828)は、博多の中島町(現博多区)の商家に生まれた。幼い時から漢学や歴史を好み、福岡藩の儒学者亀井南冥(かめいなんめい)・昭陽(しょうよう)に学んだ。また松永子登(まつながしと)や二川相近(ふたがわすけちか)、聖福寺の仙厓(せんがい)和尚、絵師の斎藤秋圃(さいとうしゅうほ)など、当時の筑前の学者・文化人と交流が深く、さらに頼山陽(らいさんよう)や上田秋成(うえだあきなり)など、中国地方や上方の学者・文化人とも交遊があった。しかし寛政異学の禁で藩に退けられていた亀井派を援助したことがもとで、家業を弟に譲り、大宰府に草庵を建てて住んだ。その後、上方へ遊学して絵を学び、また太宰府の旧跡の荒廃を嘆いてその地を買い取るなどの保存にも尽力している。
荒戸山と福岡城(福岡図巻) |
博多湾の上空から眺めた陸のようすが描かれたもので、福岡から博多、筥崎、香椎、名島、海の中道、志賀島、そして対岸の宮浦と、西まわりに海岸や松原の風景が続く。 |
西都(さいと)旧跡十二景 |
かつての大宰府政庁とその周辺の寺院などの名所を描いたもの。 |
大和国法隆寺伽藍(がらん)図(奈良) |
<筑前名所図会>
玉蘭が文化5(1808)年に伊勢神宮に参拝した折、諸国に名所図会があることに触発され、同年、再び京都に上って、絵師岸駒(がんく)・岸岱(がんたい)などに絵を学び、文政4(1821)年に完成させたもの。筑前の国の名所・旧跡とそれにまつわる神話、伝説、歴史などが、貝原益軒(かいばらえきけん)の「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」などを参考にして、福岡、博多、筑前の15郡の計17部10冊に分けて解説してある。しかも当時の筑前の名所・旧跡や風景・風物が、空中からの俯瞰図(ふかんず)や、周囲を含めた全体図で描かれ、当時の実景を知る手がかりとなる。また祭礼や暮しなど当時の風俗を描いた部分も多く、人々の労働や生活をしのばせる。この他に歴史や伝説を描いた想像図もあり、これらの挿画は計246点にも及んでいる。このうち玉蘭と交流のあった仙厓(兒舞の図)、岸岱(墨亀の図)の作も見られるが、ほとんどは玉蘭の筆によるもの。
「筑前名所図会」は他の諸国の名所図会と同様に刊行される予定であったが、あまりに詳しすぎる内容と、亀井派との交流が原因で藩に許可されなかったと言われ、稿本(こうほん)のまま玉蘭の手元に残され、現在まで伝わった。
版画「筑前筥崎」 |
諸国の案内図、名所図
江戸時代の中頃になると、海陸の交通も整備され、庶民の旅行も盛んになった。そのため木版で摺(す)られた道中案内図や、旅行案内記が作られた。江戸時代後期には、3都や諸国で、名所などを実景に近い俯瞰図で描いた名所図や、それらを本にして解説を付けた名所図会も作られ、人々の実用に供されたほか、浮世絵にも利用されて鑑賞されたりした。