平成7年4月4日(火)~5月14日(日)
朱塗合子形兜 |
黒田如水着用の兜の写し |
一瓢箪誉兜 |
24騎の一人桐山氏に豊臣秀吉が与えたもの。 |
黒田二十四騎図 |
福岡藩初藩主黒田長政をあらわす大水牛脇立兜をかこみ24人の家臣がいる。 |
黒田二十四騎とその時代
黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)とは、戦国時代の終りから安土・桃山時代にかけて、黒田如水(じょすい)(孝高(よしたか))とその子で初代福岡藩主長政(ながまさ)を助けて活躍した家臣のうち、後世の人々が特に選んで称(たた)えている24人の家臣の人達です。長政の弟達の一門(いちもん)の人々や、如水の播州(ばんしゅう)(現兵庫県)時代から仕えた大譜代(おおふだい)の人々が中心です。しかしその中には後々も黒田家の家老として仕えた人(黒田一成(くろだかずなり)など)がいる一方で、豊臣秀吉による文禄(ぶんろく)の役(1592~3年)の激戦で戦死や病死した人(黒田利高(くろだとしたか)、久野重勝(くのしげかつ)、小河信章(おごうのぶあき))や、関ケ原合戦による黒田氏の筑前入国(ちくぜんにゅうごく)の後、主君と争って離れていった人(後藤基次(ごとうもとつぐ))もいました。また戦乱がおさまると武功から民政の方にカを発揮した人(桐山丹斎(きりやまあきとき)、菅正利(かんまさとし)、林直利(はやしなおとし)など)もいます。さらに江戸時代の初めの厳しい藩政の争いの中で、本人や子孫が消えていく場合(栗山利安(くりやまとしやす)の子大膳(だいぜん)、井上氏、小河氏、秋月藩の掘正儔(ほりまさもと)父子)もありました。
江戸時代も中頃をすぎ、社会も安定して歴史が振り返られ始めると、二十四騎の人々はかつての黒田氏の活動の中での、主従の結束のシンボルとして登場して来ました。そして時の藩主の命で、伝記(6代継高(つぐたか))や詳しい肖像画(10代斉清(なりきよ))が作成されたり、天明時代には春日神社(現北九州市)にまつられて、参勤交代(さんきんこうたい)途中の藩士達に参拝されました。この展示では、本館が所蔵する黒田資料の中から、黒田二十四騎画帖を中心に、24騎の実像と事蹟を紹介します。
軍扇/江戸時代
軍陣に用いる扇。軍扇は親骨の面が広く、親骨に猫間を透し、表裏の日月文を大きく描く。要(かなめ)には鵐目(しとどめ)を入れて緒を通している。
軍配団扇/江戸時代
略して団扇または軍配という。軍配の文字のごとく軍中の指揮用具。表裏に日月文と十二支、二十八宿を書き入れる。軍隊の配置、進退の日時、方角など軍陣の手配を示した。
采配/江戸時代
細く裂いた紙を束ねて棒の先に結びつけ、これを振って合図指揮をする道具としたもの。采配の振り方でいろいろの合図があり、命令をうける方も、合図内容を心得ねばならなかった。
黒田利高 | 黒田利則 | 黒田直之 | 井上之房 | 母里友信 | 栗山利安 |
(くろだとしたか) | (くろだとしのり) | (くろだなおゆき) | (いのうえゆきふさ) | (もり(ぼり)とものぶ) | (くりやまとしやす) |
(1554~1596) | (1561~1612) | (1564~1609) | (1554~1634) | (1556~1615) | (1551~1631) |
後藤基次 | 黒田一成 | 小河伸章 | 野口一成 | 久野重勝 | 野村祐勝 |
(ごとうもとつぐ) | (くろだかずなり) | (おごうのぶあき) | (のぐちかずなり) | (ひさのしげかつ) | (のむらすけかつ) |
(1558~1615) | (1571~1656) | (1554~1593) | (1559~1643) | (1545~1592) | (1560~1597) |
桐山舟斎 | 竹森次貞 | 吉田長利 | 三宅家義 | 毛屋武久 | 菅 正利 |
(きりやまあきとき) | (たけもりつぐさだ) | (よしだながとし) | (みあけいえよし) | (けやたけひさ) | (かん まさとし) |
(1554~1625) | (1550~1621) | (1547~1623) | (1551~1622) | (1554~1628) | (1567~1625) |
益田正親 | 堀 正儔 | 衣笠景延 | 村田吉次 | 原 種良 | 林 直利 |
(ますだまさちか) | (ほり まさもと) | (きぬがさかげのぶ) | (むらたよしつぐ) | (はら たねよし) | (はやし なおとし) |
(1542~1611) | ( ? ~1645) | (1552~1631) | (1565~1621) | (1557~1639) | (1569~1629) |