平成7年5月16日(火)~7月16日(日)
▲茶器 |
3、福岡大空襲
日時 昭和20年(1945)年6月19日23時11分~20日0時53分
参加部隊
第21爆撃機集団所属の2爆撃航空団
(1)第73爆撃航空団(サイパン島イスレー飛行場配備)
(2)第313爆撃航空団(テニアン島北飛行場配備)
機種・機数
B29 221機
第73爆撃航空団 131機
第313爆撃航空団 90機
使用弾
E46・500ポンド集束焼夷弾 3,364個(732.8屯)
E36・500ポンド集束焼夷弾 40個(6.7屯)
AN・M47A2・100ポンド
焼夷爆弾 22,775個(785.5屯)
(合計1525.0屯)
死亡者数 868人
負傷者数 1,048人
行方不明者数 107人
全半焼家屋数 14,834棟
罹災(りさい)者数 58,253人
(『福岡市史』より)
本土爆撃(ほんどばくげき)と福岡大空襲(ふくおかだいくうしゅう)
連合国軍、特にアメリカ軍による日本本土初空襲は昭和17(1942)年4月(東京、横浜など)であったが、本格化するのは昭和19年6月以降のことである。6月16日に北九州市を攻撃したB29爆撃機は中国成都(せいと)(現在の中華人民共和国四川省成都)から飛び立ったものであった。その後11月下旬、マリアナ諸島を占領したアメリカ軍が建設した基地からの離発着が可能になると、日本本土の大部分への空襲が可能になった。これ以後の日本本土への空襲は次の3期に区分することができる。
(1)昭和19(1944)年11月24日以降
高高度(8千~1万m上空)から昼間工場などを攻撃した「精密爆撃」の時期。
(2)昭和20(1945)年3月10日以降
大都市に対する焼夷弾攻撃が行われた時期。3月10日東京大空襲を始め、横浜、名古屋、大阪などの大都市が焼き尽くされた。
(3)昭和20(1945)年6月17日以降
中小の57都市が焼夷弾攻撃を受けた。福岡大空襲(6月19日)はこの第2回にあたり、同じ日に豊橋(とよはし)(愛知県)、静岡も攻撃された。
▲GHQの看板 |
▲臨時許可証 |
極東国際軍事裁判の傍聴(ぼうちょう)許可証。この裁判は、太平洋戦争後に日本の戦争犯罪(戦犯(せんぱん))を審理したもの。昭和21(1946)年5月から2年半に亘(わた)って行われた。 |
4 占領(せんりょう)と復興(ふっこう)
敗戦によって日本はアメリカ軍を中心にした連合国軍に占領され、福岡にも進駐軍(しんちゅうぐん)福岡司令部の諸施設が東公園等に置かれました。同時に焼野原(やけのはら)となった福岡市にも復興の槌音(つちおと)が響きました。
占領(せんりょう)
敗戦後の日本は連合国軍(アメリカ軍)によって占領され、占領政策がとられた。福岡市にはG・H・Q(General Headquartersの略)福岡司令部が置かれ、昭和20(1945)年10月までに、市内の30か所以上の諸施設が接収された。福岡への進駐は9月22日に始まり、昭和27年4月の平和条約発効まで続いた。その間、昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発し、福岡市民の間に戦争への危機感が高まり、また占領政策も米・ソ冷戦に対応したものに変化した。
平和条約発効の後、多くの接収施設が返還されたが、板付飛行場(現在の福岡国際空港)をはじめとする板付基地などの返還は先送りされた。
引揚(ひきあげ)
太平洋戦争敗戦後、「外地(がいち)」(それまで日本の植民地であった台湾、朝鮮、満州(まんしゅう)、南洋群島、樺太(からふと)など)から日本へ帰国することを「引揚」という。朝鮮半島や中国大陸に地理的に近い博多港には、昭和20(1945)年11月24日引揚援護局が置かれ、引揚・復員に関する業務を行った結果、統計上把握できるだけでも約140万人が博多港で日本の地を踏んだ。また博多港から祖国へ向けて出発した中国人・朝鮮人の数も50万人以上にのぼった。
主な引揚港と引揚者数
()内は現在の行政区域/人
函館港(北海道函館市) | 311,172 |
浦賀港(神奈川県横須賀市) | 564,625 |
舞鶴港(京都府舞鶴市) | 664,531 |
名古屋港(愛知県名古屋市) | 259,589 |
田辺文里港(和歌山県田辺市) | 220,332 |
広島大竹港(広島県大竹市) | 410,783 |
山口仙崎港(山口県長門市) | 413,961 |
博多港(福岡県福岡市) | 1,392,429 |
佐世保港(長崎県佐世保市) | 1,396,468 |
鹿児島港(鹿児島県鹿児島市) | 360,924 |