平成7年5月16日(火)~7月16日(日)
(3)太平洋戦争(たいへいようせんそう)の時代(じだい)
昭和16(1941)年12月8日、日本の海軍機動部隊がハワイ真殊湾にあったアメリカ海軍基地を奇襲、陸軍もまたマレー半島へ奇襲上陸を行い、太平洋戦争が始まりました。
大東亜戦争(だいとうあせんそう)
昭和16(1941)年12月、日本がアメリカ、イギリスに開戦を布告(宣戦布告(せんせんふこく))した時、日本はすでに昭和12年7月の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに、中国と全面戦争に突入していた。宣戦布告後の昭和16年12月12日、日本政府は、今回の戦争は「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」(中国や東南アジアを日本の支配下に置こうとする考え)のための戦争であるとして、盧溝橋事件まで逆上って「大東亜戦争」と呼ぶこととした。この美称(びしょう)に対し、「太平洋戦争(Pacific War)」という呼び名は、初めアメリカで使われ、戦後日本でも一般化した。
▲絵葉書(銃後) |
銃後(じゅうご)
文字通り「銃の後ろ」の意。大正期には「銃を執(と)る人」即(すなわ)ち武器を持つ兵士のことを指し、戦争の勝敗は武器の良(よ)し悪(あ)しよりも、人(兵士)にかかっていると強調された。
昭和期になると、「戦場の後方」の意味になり、直接戦闘(せんとう)に参加せず、背後で戦闘を応援する非戦闘員をさして使われるようになった。一般国民を戦時体制に取り込んでいこうとする時に、この言葉が用いられた。
▲貯蓄債券 | ▲戦時報国債券 |
縁(ふち)の飾り文様に戦車、軍艦などが描かれた戦時報国債権である。太平洋戦争開戦(昭和16年12月8日)の1年後なので右上に「大東亜戦争第一周年記念」と記入されている。 |
戦時報国債券(せんじほうこくさいけん)と戦時貯蓄債券(せんじちょちくさいけん)
どちらも太平洋戦争の戦費を調達するための戦時債券で、昭和17(1942)年2月から2ケ月毎に売り出された。発売価格を低くおさえ、小口の貯蓄を戦争のために使おうとした。いずれも株式会社日本勧業銀行が発売したが、その収入は臨時資金調整法に基き大蔵省に入るようになっていた。戦時報国債券は無利子、戦時貯蓄債券は利子付で20年間で償還することになっていた。その他に毎年2回の抽選で賞金が当たることにもなっていた。
軍事郵便(ぐんじゆうびん)と恤兵絵葉書(じゅっぺいえはがき)
「恤兵(じゅっぺい)」とは兵士を慰(なぐさ)めるという意味で、金銭や品物を送って、戦地の兵士たちを慰問することをさす。国内の人々は慰問袋(いもんぶくろ)や慰問箱(いもんばこ)に品物や手紙を入れて送り、兵士を慰めた。「恤兵絵葉書」は、兵士慰問用の絵葉書で、日本情緒を表現したものが多かった。また「軍事郵便」は出征中(しゅっせいちゅう)の軍人・兵士が家族や知人とやりとりする通信のことで、恤兵絵葉書は軍事郵便に含まれる。戦地から日本に送られるものは、内容について検閲(けんえつ)が行われた。
▲ゴールデンバット |
敵性語(てきせいご)と改名(かいめい)
新体制運動が盛んになった昭和15(1940)年は、芸名や商品名の統制が厳しくなった。3月には映画・レコード会社に、不敬(天皇を冒涜(ぼうとく)するもの)や敵性語(敵国語)にあたる芸名の改名が命じられた。11月には、たばこ「チェリー」が「桜」に、「ゴールデンバット」は「金鵄(きんし)」となった。またジャズやマイクロホンも「敵性」とされ、音階(おんかい)「ドレミファソラシド」は「ハニホへトイロハ」となった。新しく付けられる名前も漢字一辺倒(いっぺんとう)になった。
代用品(だいようひん)
昭和12(1937)年の日中全面戦争以降は長びく戦争のため、資源が乏しい日本では物資の不足が深刻(しんこく)なものとなった。次々に戦時統制経済策がとられ、不足物資を補(おぎな)うためにさまざまな代用品が作られた。繊維ではすでに開発されていたスフや人絹(レーヨン)がそれにあてられた。金属製品に代わって陶磁器製品が発案され、改良が加えられていった。陶磁器の産地でもいち早く代用品生産に乗り出し、製品が市場(しじょう)に出廻(でまわ)っていった。
▲防衛食の容器 |
防衛食(ぼうえいしょく)の容器(ようき)
缶詰の代用品として考案されたもの。中に食料を入れ、パッキングをはさんで蓋(ふた)をし、熱湯(ねっとう)に入れて温めた後、冷水につけて急速に冷やすと、中が真空(しんくう)状態となって、長期保存ができるようになっていた。蓋の中央の穴は釉薬(ゆうやく)(上薬(うわぐすり))がかかっているだけで、開ける時はここを針状のもので刺すと、中に空気が入って蓋が開くという仕組であった。