平成7年5月16日(火)~7月16日(日)
(2)日中戦争(にっちゅうせんそう)の始(はじ)まり
昭和12(1937)年7月7日からの盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに、日本は宣戦布告のないまま中国と全面戦争に入りました。
▲支那事変記念盃 |
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
昭和12年(1937)年7月7日夜、中国北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍との間に起った軍事衝突事件。中国では「七・七事変」ともいう。夜間演習中だった日本軍が銃撃され、一時兵士が行方不明になったため、政府はこれを「北支事変」と呼び、5個師団の中国派兵を決定、事件は拡大した。日本はすでに昭和6年の満州事変以来、中国と戦争状態に入っていたが、この事件をきっかけに日中全面戦争に突入した。
この事件は当初「北支事変」と呼ばれていたが、9月には「支那事変」と改称した。太平洋戦争が始まると「大東亜戦争」に含めることとした。
皇紀2,600年(こうきにせんろっぴゃくねん)
日本の紀元(きげん)を、『日本書紀(にほんしょき)』にある神武天皇即位(じんむてんのうそくい)の年を元年として計算したもの。キリスト誕生以前の紀元前660年を元年とするので、西暦1940年即ち昭和15年は皇紀2,600年にあたる。戦時体制がとられていたこの年は、11月10日に東京で祝典が行われるなど、全国で奉祝(ほうしゅく)ムードが盛り上り、「八紘一宇(はっこういちう)」「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」「聖戦(せいせん)」などといった言葉がしきりと使われた。また「皇紀」をただ「紀元」とだけ言ったりもした。この年に採用された海軍の零(れい)式艦上戦闘機(零(ゼロ)戦)の「零」も2,600年からとられたものである。全ての政党が合同した大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が結成されたのも、この年であった。
▲軍事郵便(南京鳥瞰図) |
聖戦(せいせん)
「神聖な戦争」の意で、「正義のための戦争」というイメージを併(あわ)せ持っている。戦時下の日本では、昭和15(1940)年の皇紀2,600年奉祝の折に、「八紘一宇」(天下をひとつの家のようにするという意)や「天壌無窮」(天と地が永遠であるという意)などといった言葉とともに、多く使われた。具体的には日中全面戦争を指し、福岡市では昭和14年4月の「聖戦大博覧会」などの使用例がある。
▲聖戦大博覧会全景(絵葉書) |
新体制運動(しんたいせいうんどう)
昭和15(1940)年頃盛り上った新しい政治体制を作ろうとする運動で、初めは新しい政党とその内閣を作り、それによって軍部を押え、日中戦争を解決しようというものであった。貴族(五摂家筆頭(ごせっけひっとう)の近衛家(このえけ)) 出身の近衛文麿(このえふみまろ)がリーダーであることに、軍人政治家とは違う魅力(みりょく)を感じた国民も、この運動に期待した。この運動により全政党が解散し、代って10月12日大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が結成された。
およそ1年後の昭和16年12月、日本は太平洋戦争に突入した。