平成7年5月16日(火)~7月16日(日)
1、昭和初期(しょうわしょき)の生活(せいかつ)と文化(ぶんか)
昭和の幕開(まくあ)けは1926年12月25日。不況と政治腐敗、軍部勢力の台頭(たいとう)など暗い社会状況ながら、都市の庶民生活には明るい文化の熟成(じゅくせい)が見られました。
▲東亜勧業博覧会ポスター |
都市化(としか)と市民文化(しみんぶんか)
昭和初期の日本では、電気やガス、水道が都市に飛躍的に普及し、都市民の生活を大きく変えた。また、交通網が発達し、地方鉄道が開通して、人々が都市へ出かけて行くようになったことも、生活の変化を一層促進した。
都市には商店街やデパート(百貨店)があり、人々が自由に商品を見て回ることができた。この時期は「見る」ということが、大正時代前半頃までに比べ、より大きな意味を持つようになった。都市は「見る」ことに対する要求を生む場所であり、またそれに応える場でもあったのである。
東亜勧業博覧会(とうあかんぎょうはくらんかい)
昭和2(1927)年3月25日より5月23日まで、大濠(おおほり)西側一帯で開催された。
日本は大正9(1920)年の戦後恐慌(第1次世界大戦による好景気の後の恐慌)以来、経済不況に見舞われていた。この博覧会は、このような経済状況を活性化させるため、大正13年より準備が進められていた。大正15年12月25日大正天皇が亡(な)くなり、昭和元年となったため、博覧会の会期は大正天皇の喪中であったが、出品総数は384,573点、観覧者数は1,603,472人(当時の福岡市の人口は約15万人)にのぼった。
会場にはロマネスク様式の本館や、教育館、農業館などのパビリオンがあった。また「朝鮮館」「台湾館」「満蒙(まんもう)館」(満蒙は満州・蒙古の意で、中国東北地区やモンゴルを指す)があり、「外国館」でも中国や東南アジア諸国についての展示が行われた。
2、戦時下(せんじか)のくらし
(1)15年戦争(じゅうごねんせんそう)の始(はじ)まり
昭和6(1931)年9月18日からの満州事変をきっかけに、日本は15年も続く中国との戦争の時代に入りました。
満州事変(まんしゅうじへん)
昭和6(1931)年9月18日、中国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)郊外柳条湖の南満州鉄道線路上で起った爆発をきっかけに、日本軍(関東軍)が中国軍を攻撃した柳条湖事件から始まる一連の戦争をいう。日本軍は引続き中国東北部を攻撃し、翌7年3月には「満州国」を成立させた。事件の拡大に消極的だった犬養毅首相が暗殺され(五・一五事件)、国際連盟で満州国の不承認が決まると、日本は国際連盟を脱退した。
▲博多築港起工記念メダル |
博多築港修築工事(はかたちっこうしゅうちくこうじ)
博多港は明治32(1899)年開港場に指定されるなど、重要な港湾として発展してきた。修築計画は常に議論されてきたが、なかなかまとまらず、昭和6(1931)年ようやく工事に着手した(第1期工事) 。この背景には、東亜勧業博覧会(昭和2年)の成功で福岡市の商況が浮揚したことがある。
一方、満州国の成立(昭和7年3月)により、地理的に中国大陸や朝鮮半島に近い博多港の重要性が増し、昭和12年、第1期工事に続き第2期工事も行われた(~昭和16年) 。
さらに昭和16年12月太平洋戦争が始まると、博多港は「国策港(こくさくこう)」(国の重要な政策として位置づけられる港湾の意)として、昭和17年より第3期工事に入った。
▲博多築港記念大博覧会全景図(部分) |
博多築港記念大博覧会(はかたちっこうきねんだいはくらんかい)
博多築港修築第1期工事の完成を前に、それを記念して開かれた。工事の一環として造成された新埋立地(現在の福岡市中央区長浜(ながはま))7万5,000坪の敷地に大・小約20のパビリオンが設けられた。その中には国防館や軍需工業館、経済更生館などの展示館もあった。昭和11(1936)年3月25日から5月13日までの会期中に、およそ161万人もの観覧者を集めた。