平成7年7月18日(火)~平成7年9月17日(日)
写真1 鍍金鐘 |
「福岡の寺社展」の第2回目として、東区志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社を紹介します。金印(きんいん)発見の島として著名な志賀島に鎮座し、祭神は“海の神”綿津見神(わたつみのかみ)です。当社の形成は、海洋活動で知られる阿曇族(あずみぞく)が深く関わり、彼らによって祭神が奉祀されたと考えられます。所蔵の文化財には古くから伝わるものが数多くあります。例えば、13世紀前半高麗(こうらい)時代の鍍金鐘(ときんしょう)(写真1)、鎌倉(かまくら)末~南北朝(なんぼくちょう)初期の作とされる縁起(えんぎ)(写真2)、貞和(じょうわ)3年(1347)の銘をもつ石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)、戦国期の文書等々です。
そこで、展示ではこれらの文化財が存する時代に注目し、他所に伝来した関係資料を交えて、中世の志賀海神社をめぐる歴史的状況をたどっていきます。
写真2 志賀海神社縁起(境内図) |
写真3 八幡愚童訓 |
1 蒙古襲来と志賀海神社
2度にわたる蒙古襲来(もうこしゅうらい)(1274・1281年) は、志賀海神社だけでなく、日本史上においても歴史的大事件でした。この時、志賀島は合戦の舞台となり、蒙古襲来絵詞(えことば)には当社付近の高所に陣取る蒙古人が描かれています。襲来を契機に各地の寺社で神の威徳を讃える縁起(えんぎ)が作成されますが、展示の縁起(写真2)・八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)(写真3)もこの流れのなかで捉えうると考えられます。
2 長講堂領志賀島
志賀島は、建久(けんきゅう)2年(1191)には長講堂領(ちょうこうどうりょう)の1つとしてみえます。長講堂領は持明院統(じみょういんとう)に伝領された天皇家領を代表する荘園(しょうえん)群で、志賀島は院(いん)の主典代(さかんだい)を務めた島田氏を預所(あずかっそ)(領家(りょうけ))として様々な課役(かやく)を負担しています。例えば、為直書状(ためなおしょじょう)(写真4)は年貢米(ねんぐまい)に関する指示や当時の島の生活相を伝えています。建武(けんむ)3年(1326)志賀島は足利尊氏(あしかがたかうじ)により九州探題(たんだい)の兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)に指定されると、探題被官(ひかん)による濫妨(らんぼう)が始まり、領家側から押領停止の訴えがなされます(写真5)。しかし、応永(おうえい)14年(1407)、志賀島は島田益直(ますなお)の不知行地としてみえ、同氏の手を離れたようです。まもなく当社は筑前を領する大内(おおうち)氏の保護下に入ります。
写真4 志賀嶋雑掌為直書状 |
写真5 光厳上皇院宣案 |
写真6 大内政弘禁制 |
3 戦国時代の志賀海神社
大内氏との関係は、当社に伝わった記録によると、永享(えいきょう)11年(1439)、大内持世(おおうちもちよ)による再興を記しますが、確たる文章では文明(ぶんめい)12年(1480)の大内政弘禁制(まさひろきんせい)(写真6)を初見とします。以後大内氏は政弘・義興(よしおさ)・義隆(よしたか)・義長(よしなが)と4代にわたって宮司職(ぐうじしき)の安堵(あんど)や寄進(きしん)を行い保護を加えます。しかし、応仁(おうにん)の乱が起きると九州にも戦乱が及び、大内氏と敵対する小弐(しょうに)氏が筑前に侵入し、一時当社も混乱に巻き込まれます。宮司坊職が小弐頼忠(よりただ)によって対馬の東月寺住持(とうげつじじゅうじ)に安堵されます。後に大内氏が滅ぶと、代わって筑前を治めた大友(おおとも)氏の支配に属します。
写真7 幽斎短冊 |
4 豊臣秀吉の九州平定と志賀海神社
天正(てんしょう)15年(1587)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が九州平定を行い、九州における戦国時代は終わりを告げます。このとき当社に詣でた細川幽斎(ほそかわゆうさい)は和歌(わか)2首(写真7)を奉納しています。秀吉による国分(くにわけ)(領土配分)で筑前国を与えられた小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、荒廃した社殿の整備を行い、文禄(ぶんろく)4年(1595)には秀吉朱印状(しゅいんじょう)によって社領50石が確定します。この石高(こくだか)は、以後近世(きんせい)を通じて代々黒田氏によって安堵がなされていきます。